The shoulders of Giants
身体
厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負担をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ーーー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。[…]
こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、[…] 紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。
(市川沙央、2023『ハンチバック』文藝春秋)
あまり自覚されることはないが、20世紀とは「映像の世紀」であるのと同程度には「エンジンの世紀」でもあった。そして前世紀後半のオートバイと自動車の大衆化は、先進国に「交通戦争」とすら呼ばれる状況をもたらした。つい半世紀前まで、この国でも交通事故の死者は1万人を超えていた。しかし、今日においてそれはおよそ1/3以下に減っている。自動車の安全性能の向上、政府の法規制と啓蒙の強化がその主要因と言われているが、同時に人類がエンジンのもたらすスピードという幻想、それを手にしておよそ100年で醒めつつあることが指摘できる。片岡義男(『スローなブギにしてくれ』『彼のオートバイ、彼女の島』)からしげの秀一(『バリバリ伝説』『頭文字D』)まで、20世紀のポップカルチャーにおいて定位置を占めていたこれらの機械への欲望は大きく後退している。強く、大きく、そして「速い」機械による身体拡張の快楽に人類は酩酊し、それがつい数十年前までは工業社会下における男性性の成熟と重ね合わされていた。しかし、21世紀の今日に生活の必要とは無縁にこのような文化に親しむ人々は、次第にかつての香港のカンフー映画を愛好する人々のようにレトロな文化に親しむ趣味人と見なされつつある。
(宇野常寛、2023「いま必要なのは「新しい生活様式」の反省と再評価だという話」note)