〈演じる〉とは、他者たちの前で「本当の」自分とは異なる「虚構の」人物に扮し、あたかも自分がそうした人物でもあるかのように振舞うことである。つまり、一方に〈演じる〉主体としての「私」がおり、他方に〈演じられる〉対象としての様々な「役」がある。前者は後者を場面に応じて選択し、操作していくことを通じて、〈演じる〉という行為を行っている。そしてその場合、モデルとなっているのが、狭義の「演じる」、すなわち舞台上の俳優の演技であることはいうまでもない。
だがしかし、実のところ舞台上の演技とは、こうした「偽りの」自己の呈示とは、本質的に異なる性質のことがらである。多くの優れた演技においては、〈演じる〉ことの前にそうした操作を行う主体としての「私」やその対象としての「役」が存在しているわけではない。〈演じる〉という操作そのもののなかで、演じる「私」と演じられる「役」が同時的に発生してくるのであり、俳優は、そうした「私/役」の発生の現場に立ち会っているのだ。俳優は、登場人物に扮するのではなく、〈演じる〉ことを通じて登場人物を発見するのである。
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〈演じる〉ことのこうした根源的なあり方が、たんに舞台上での「私」と「役」の成立についてのみ当てはまるものではなく、日常の生活場面における自己と他者の成立にも通底していることはいうまでもない。M・メルロポンティが精密に論証したように、われわれの自己なり他者なりが成立してくる存在論的淵源は、見るものと見られるもの、触わるものと触わられるもの、感じるものと感じられるものが、互いにもののただなかから生起してきて交流し、反響する、その閾に求められる。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)