The shoulders of Giants
繋がり
村上春樹の主人公が特定のパートナーと継続的な関係を維持できず、次々と別の女性と関係を持つことに象徴されるように「所有」は一過性の欲望だ。対して「関係性」は持続性を要求する欲望だ。二者間の双方向的なコミュニケーションの結果として事後的に立ち上がる関係性は、その二者の間だけに発生する固有のもので、それが触れ続けられていることによってのみ維持し、確認される。仮にたった一度の触れ合いで得た体験の記憶が特権化されたとき、それは既に名付けられたものであり、所有されたものであり、そして一方向的なものだ。その相手が同じように記憶の中で、その一回の接触を特別なものと位置づけているとは限らないからだ。関係性は持続され、反復されることによってのみ成立する。「関係性」とは一定の距離感と進入角度のことを指すのではなく、二者の接触によってその都度、距離感と進入角度が共創的に試行錯誤し続けられる「状態」のことを指すのだ。
(宇野常寛、2022『砂漠と異人たち』朝日新聞出版)
「二谷さんと食べるごはんは、おいしい」
押尾さんがほほ笑んで言う。ほほ笑んでから言ったというよりは、その言葉を言うために唇を動かしたら目じりや頬も一緒に動いた、という感じのほほ笑み方だった。
「二谷さんは目の前にある食べ物の話をほとんどしないから、わたしも、これおいしいですねとか、すごいふわふわとか、いちいち言わないで済んで、おいしくても自分がおいしいって思うだけでいいっていうのが、すごくよかった。おいしいって人と共有し合うのが、自分はすごく苦手だったんだなって、思いました。苦手なだけで、周りに合わせてできてはしまうんですけど。甘いのが好きとか苦手とか、辛いのが好きとか苦手とか、食の好みってみんな細かく違って、みんなで同じものを食べても自分の舌で感じている味わいの受け取り方は絶対みんなそれぞれ違っているのに、おいしいおいしいって言い合う、あれがすごく、しんどかったんだなって、分かって。二谷さんとごはんを食べる時はそれがなかったからよかった。一人で食べてるみたいで。でもしゃべる相手はいるって感じで。[…]」
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。
(井戸川射子、2024『この世の喜びよ』講談社)
祐治は晴海を思い、知加子の腹の中で成長をとめた子を思い、苦悩に悶えた。生きている間の辛苦は本人と共有できるが、死は別だ。死だけは本人ではなく、側にいる人間が引き受け、近いほど強烈に感じ続ける。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
すると自分を正当化しようとして、イエスに言った、「では、わたしの隣人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負おわせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリオン銀貨二枚を取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行ないをした人です」。そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
(新約聖書「ルカによる福音書」10章 29〜37節)
「くそダセえ。大人になれないのはあたしじゃねえ、てめえだよ。ママの大事な僕チャンをいい加減、卒業しろよ。自分だけは大切にされて当たり前とでも思ってんだろ。この短小が。あたしのことをどうこう言う前にてめえのテクのなさをどうにかしろよ。おら、立て、おら。そもそも、もろくない人間関係なんてこの世界にあんのかよ。女と女も、男と女も、男と男もみんなおんなじだろうが。どんな関係も形を変えたり、嫌ったり嫌われたり、距離を測ったり、手入れしながら、辛抱強く続けていくしかねえんだよ。たかが関係一つ手に入れただけで腹一杯になれるもんか。なんもしないですべてが満たされて承認されて、問題全部解決するわけないだろうが。 […] 」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。──同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが、他者の存在のどこを探ってみても、見出せないということ。
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)
社会学にとどまらず、人類学や経営学、政治学、アートなど幅広い分野で応用されている「アクターネットワーク理論」(以下、ANT)というものがある。フランスの社会学者であるブリュノ・ラトゥールが代表的な提唱者だ。
ANTは人びとの集まりが「社会」を構成するのではなく、非人間(生物、無生物、 人工物、技術などあらゆる要素)を含む異種多様なアクターの連関が「社会的なもの」を組み立てていると考える。
ラトゥールは社会を基本的に複数の人間の集まりと捉える「社会的なものの社会学」を批判し、非人間を二次的なものと位置づけることのない「連関の社会学」を打ち立てた。
要するに、行為する主体としての人間だけではなく、人間以外のさまざまな要素が果たすネットワークをたどり、その結果として社会を見る必要を訴えたのである。人間/非人間にかかわらず、アクターは他のアクターとの連関を通じてエージェンシー(行為や作用を生み出す力行為主体性)を発揮する。ANTはこのように近代の人間中心主義からの脱却を前提にして「社会」を捉える理論だといえるだろう。
たとえば、ANTからすれば、子供が遊具を主体的に用いて遊んでいるとは捉えない。子供の遊びを構成するのは、人間の行為だけではなく、遊びの空間を構成するあらゆる要素遊具、大地、自然、天気、技術、素材などのアクターである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)