The shoulders of Giants
文化
「ああ、まったく」と「先生」は頷く。「実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、そんなことはどうでもよいのだ、使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ! 私のメフィストフェレスも、シェイクスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェイクスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものを作り出さなければならないのだろうか? 芸術には、すべてを通じて、血統というものがある。かつてのドイツの若者は会話の節々で聖書を引用することができるように教育されたが、それは結局、感情や事件というものが永遠に回帰することを暗示し明示するのだ。我々の思想を表現するのに先人の吟味された教養ある言葉を用いるとき、彼らが我々の心の奥深くを我々以上に巧みに開いて見せることを認めるのだ。巨匠を見れば、常にその巨匠が先人の長所を利用していて、そのことが彼を偉大にしているのだ」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
「でも、これはまさにそういう話。結局、我々は過去の時代について、残された断片から想像するしかない。古典学者が勘違いしたのも仕方ない。だが、我々が新たな物の見方を獲得したと同時に、古代人の見方を失ってもいることは忘れてはいけないけれど」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
新宿は歌舞伎町界隈が戦後の赤線の灯と闇市的な露天商文化を継承し、同時に左翼の学生や演劇青年、ミュージシャン等を抱え込み、雑多な群衆が集まるアングラ文化の拠点として60年代にピークを迎える。吉見は政治的・文化的・風俗的なものの尖鋭を吞み込み、エネルギーが渦巻くこの街の特徴を四つ挙げる──①「ありとあらゆる種類のヒトやモノを無差別に受け入れ、それでいておのれの独自性を失わない強烈な消化能力」、②「新宿という街は、過去を語るにはふさわしくない。ただひたすら現在が重要な街」(松本孝)として次々に新しいドラマが繰り広げられてゆく「先取り的性格」、③「次に何が起こるかわからない不確定性」を常に孕む「無限に変幻自在な顔」、④唐十郎のテント興行や西口地下広場でのフォーク集会等、「参与する人びと相互の濃密なコミュニケーションを媒介」に生み出される「共同性の交感」。「新宿」に群れ集った人びとが醸成させていたのは「〈触れる=群れる〉という身体感覚であった」。
一方、それに代わって1970年代から台頭する〈渋谷的なるもの〉の特徴は、西武資本系のパルコの戦略によって、「近代的」「現代的」な都会生活のスタイルで身を固めた若者たちが「私」を演じにやって来る「見る/見られる」のファッションの街である。触覚性を特徴とする「新宿」とは異なる視覚性が演出する街としての「渋谷」へ──。そこでは「種々雑多な身体が触れあい、群れていること」は、ただ単に「ダサい」のであり、「渋谷」は〈未来〉が(単一性を失いながらも)その都度「意味の備給によって保証されている盛り場」なのだ。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)