洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。それは不思議なことで、なんとなくかわいいと思っていた時よりも、彼女の弱いところにばかりに目がいくようになった後の方が、想像の中の彼女は色気を放った。聞いたことのないはずの種類の声で、彼女はいつも泣いている。彼女が泣けば泣くほどよかった。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
The shoulders of Giants
洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。それは不思議なことで、なんとなくかわいいと思っていた時よりも、彼女の弱いところにばかりに目がいくようになった後の方が、想像の中の彼女は色気を放った。聞いたことのないはずの種類の声で、彼女はいつも泣いている。彼女が泣けば泣くほどよかった。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
「異性の性器に性的な関心があるのは、どうして自然なことなんですか」
寺井検事、と、越川の声が聞こえる。
「ひとりの異性に何十年も性的に興奮し続けることは、誰かにこうして取り調べられることがないくらい自然なことなんですか」
(朝井リョウ、2021『正欲』新潮社)
人は一般に、愛の方が性欲よりも崇高で、純粋だと勘違いしています。しかし、私に言わせれば、これは言語道断の誤解であって、愛などというのは、偽りと打算に満ちた、遥かに不純な代物です。愛が脆いのは、その混ぜ物のせいです。
しかし性欲は純粋です。それはただ、ひたすらに合一化だけを夢見る欲望であって、決して愛だとか、況してや生活だとか(!)に堕落することはないのです。
(平野啓一郎、2014『透明な迷宮』新潮社)
問題はここに言われる「快」が何かということである。それはたとえば「快楽」という言葉で想像するような激しい興奮状態のことではない。その正反対である。生物は興奮状態を不快と受け止める。生物は自らを一定の状態に保とうとする。
だから一見したところでは不思議に思われるかもしれないが、生物にとっての快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大なのである。生物はつまり、ある一定の状態にとどまることを快と受け止めるのだ。
そうするとすぐにこうした反論が出てくるだろう。性の快楽は人間が強くもとめる快楽であるが、これは興奮量の増大としか考えられないのではないか? ならばフロイトの言う快原理はこの単純な事実と矛盾しているのではないか?
フロイト自身がこの反論をあげて、答えを出している。性の快楽は快原理と矛盾しないのである。なぜなら性の快楽は、高まった興奮を最大限度まで高めることで一気に解消する過程に他ならないからである。オルガズムを得ると、興奮は一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す(フロイトは性的絶頂の後の身体は死と似た状態にあるとも述べている)。性の快楽はこの安定した状態への復帰のためにあるのだ。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
Template : /layouts/topic/list.html
Template : /layouts/_default/baseof.html