日々行っていることを考えてみよう。私たちはどうやって様々なプロセスを決着させているのか。二人の喧嘩が「程よい」ところでどうでもよくなる──納得したからだろうか、疲れたからだろうか。ネットニュースの渉猟をやめて、ランチに出かける──腹が減ったから、だろうか。プロセスが止まる。止まってしまう、止まることになった。他にもたくさんの可能性が考えられるのに、ある「ここまで」に逢着してしまった。仮に? 説明できる面はある、説明責任を取れる面はある。だがその「ここまで」は、偶々のことでもある。説明可能な因果性がすべてではない、かといって偶然性がすべてなのでもない。因果性と偶然性にまたがるグレーゾーンを考えなければならない。それを示すのに、日本語の「~してしまう」や「~することになった」などの言い回しはとても便利である。私たち=人間がこれらを使った文の主語になるとき、その文は、私たち=人間の(意志にもとづく)責任をいくらか免除する、非人間的な、他の原理の存在をほのめかしている。半分はそれのせいなのだ……。それが、実践のプロセスを、主体の外部において中断する、有限化させる──外的な有限化の原理。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)