2024-06-22
神話を解体する自販機と昆虫食文化について
JR関内駅北口の喧騒の中に、ひときわ異彩を放つ自動販売機が設置されている。その名も「次世代良質昆虫Food」―――昆虫食を取り扱った自販機だ。
「広島こおろぎ大トロ」「山形かいこ繭」「コオロギおつまみせんべい」「コオロギ・ラーメン」「ライノ・ビートルズ(カブトムシの成虫)」「ジャイアント・ウォーターバグズ(タガメの成虫)」「ゼブラ・タランチュラ(デカい蜘蛛の成虫)」…などなど、虫が苦手な人なら卒倒してしまうような商品が陳列されている。なかなかハードコアなシロモノだ。
自宅の最寄り駅でもあるので、毎日のようにこの自販機を目にしているのだが、実際に商品を買ったことはまだ一度もない。僕はいわゆる昆虫少年だったので、虫そのものに対しては普通の人より抵抗感はないのだけれど、それを食べ物として扱うことについては、多くの人と同じようにかなりの躊躇いがある。この自販機の商品パッケージに描かれたものを自分が噛み砕いて胃に収めることを想像すると、たちまち口腔内に気色い感触が広がり、目眩すら感じてしまう。中年に差し掛かった三十五歳男性の姿としては情けないものかもしれないが、これが僕の真実の姿なので仕方ない。
その一方で、イナゴの佃煮や炒めた蜂の子程度であれば子どもの頃に口にしたことがあり、いまでも「食べろと言われたらまあ食べられる」くらいの感覚もまた同時に持ち合わせている。当時住んでいたのは神奈川県の横須賀市で、決してそういった食文化のある地域ではなかったのだが、両親のおかげで有り難い機会に恵まれてしまったのだ。例えば、イナゴの佃煮は、母が自然食品を取り扱っているような店で買ってきていた。柔らかい部分と硬い部分が混在した小海老のような食感で、噛みしめていると甘塩っぱい味がしてくる。これが結構クセになる味で、僕は割と好きだった。何度かねだって買ってもらった記憶すらある。蜂の子は、庭のアシナガバチの巣を駆除したときに父が炒めて作ってくれた。「こういった食事もあるのだ」と教える目的だったのだろう。1951年生まれの父親が、新潟県の自分の田舎では珍しいものではなかった、という話をしながら、台所でフライパンを振るっていた姿を覚えている。僕はなんとなく勝手に、それが蜂蜜のような甘い味がすると期待していたのだが、実際にはまったりとした味のしないクリームのようで、お世辞にもおいしいと言えるものではなかった。僕も妹も一口つついて食べるのをやめてしまい、残された大量の蜂の子を一人でさみしそうに食べる父の背中が印象に残っている。(ただ、その父すらも「あれ? こんな味だったか…?」と首を傾げながら食べていた。)
そんな経験もあるので、自分に昆虫食の素養がまったくないわけではないと思うのだが、イナゴや蜂の子以上のものには…特に甲虫類や蜘蛛などになると、かなりの抵抗感がある。この手の食に対する認識というのは、結局のところ、それが本人にとってどれほど身近にあったか、ということに尽きるのだろう。僕がカブトムシやタガメやセミを食べられないのは、この歳になるまで食べずに育ってきたから、というだけのことに過ぎない。『彼方のアストラ』でアリエス・スプリングが仲間を庇いながら言う「そういう風に育ったから、そうなった」という言葉は、つくづく真理を語ったものだと思う。
さて、件の自販機だが、多くの人々がその前を通り過ぎる中で、さまざまな反応を見せる。怪訝な表情を浮かべるおばさんや、無表情で固まったまま見つめ、やがて何事かを理解したかんじで立ち去っていくスーツ姿のおじさん。指を差してキャーキャーと騒ぐ恋人たちもいれば、酔っ払った大学生たちが罰ゲームとして購入している姿も見たことがある。今日も駅前を通ると、自転車に乗った小学生たちがこの自販機の前で輪を作っていた。高学年の男子の一人、少し太めで大柄の少年が自販機の前に立って何を購入するか選んでおり、他の子どもたちはそれを不安げに見守っている。会話を聞いていると、どうやら度胸試しのようだった。その光景を見ていて、もしいま僕が小学生だったら同級生の前でカッコつけてバリバリとセミやタガメを囓っていただろうし、もし大学生だったら率先して罰ゲームのネタにして大騒ぎしていたんだろうな…と想像し、少しゲンナリした(残念ながら僕はそういう愚かな子どもであり、愚かな若者であった)。
ただ同時に、罰ゲームだろうと度胸試しだろうと、僕たちの文化というものは案外こういうところから変わっていくのかもしれない、とも考えた。どんな形であれ「虫を口にしたことがある」という経験が広まることは、人々の認識や文化に影響を与えていくはずだ。きっと彼らがそういう風に育つことで、社会はそうなっていくのだろう。
僕が日本で具体的に昆虫食を広めようとする運動や愛好者たちの存在を知ったのは、2015年頃、シナプスという会社でオンラインサロン事業に携わっていた頃のことだ。そこで昆虫食を研究するサロンが開設され、バナーなどのデザインを手掛けることになって、サロン開設者の文章に触れたことがきっかけだった。それから十年近くが経つが、いち消費者として見る限りでは、昆虫食文化の普及はあまり進んでいないように感じる。どうやら日本で昆虫食を広めるのは容易ではないようだ。
しかし、この自販機はその難題に対するユニークなアプローチとして機能している。昆虫食は高たんぱくで栄養価が高く、環境負荷も少ない。フードセキュリティの観点からも積極的に取り入れていこう、とただ声高に説くだけでは限界がある。駅前に自販機を置き、遊び心で挑戦するような環境を作ることは、昆虫食が単なる食糧問題の解決策としてだけでなく、日常の一部として受け入れられるための重要な回路となり得るはずだ。
フランスの哲学者であり記号学者でもあるロラン・バルトは、著書『神話作用』で、日常生活の中に潜む「神話」を解体し、分析する試みを行った。バルトが言う「神話」とは、単に古代の神話や伝説を指すのではない。彼は、現代社会におけるさまざまな文化的事象や習慣、商品、メディアのメッセージなどを「神話」として捉えた。例えば、広告、映画、スポーツなどの中に潜む「神話」を分析し、これらがいかにして人々の意識や価値観を形作り、ある特定のイデオロギーを自然なものとして受け入れさせるかを示した。バルトの研究の目的は、こうした「神話」の解体と、その背後にあるメッセージや意味を明らかにすることだった。
僕は、この駅前の自販機を見るたびに思う。現代の日本社会における「食文化の神話」の解体は、まさにいま、この自販機の前で始まっている、と。日本では、昆虫を食べることは一部の地域を除いて一般的ではなく、むしろ奇異なものと見なされがちだ。しかし、この町の人々の目の前に突如として現れたこの自販機は、従来の固定観念を揺さぶり、新たな食文化の扉を開こうとしている。これは単なる奇抜なベンディング・マシンではなく、社会や文化の変化を促す実験装置なのだ。
そして、その触媒となっているのが、男子小学生たちの度胸試しや、酔っ払った大学生たちの罰ゲームといった愚行だ。文化の変化は、往々にしてこうした遊び心や無駄といった生活の余白から生まれる。僕は自販機前の光景にかつての自分の姿を重ねながら、そのような正当性を検討することで、自らの過去を慰めるのであった。