2024-09-04
映画『きみの色』
山田尚子監督、川村元気プロデュースの映画『きみの色』を見てきた。この夏一番楽しみにしていた映画だ。
本作は、ミッション系の女子校で寮生活を送る、おっとりした性格の主人公・トツ子が、突如学校を辞めてしまった憧れの先輩・きみちゃんと、学外で出会った医者の息子・ルイくんとの三人でバンドを結成し、それぞれがオリジナル曲(それぞれの”聖歌”)を作りながら関わりを深めていくことで、自分たちの抱える悩みを乗り越えていく物語である。
このプロットには、成長や自己発見といった普遍的なテーマが横たわっているが、本作における描写はいずれも物語上の形式に留まり、彼らの内面に踏み込んで共感を呼び起こすまでには至っていないように感じた。深みに欠けた凡庸な青春群像劇、という印象だ。
高校生たちの抱える悩みを「祖母の期待に応えなければならない」「家業を継がなければならない」という陳腐なステレオタイプで描いてしまうような人間理解の浅薄さもさることながら、致命的な欠陥は、本作の最大の特徴であるはずの「色」と「音楽」の表現が物語に深みを与えるに至らず、視覚的演出としても限定的な役割に終始していることだろう。
トツ子には「人柄や心情を色として感じる」という共感覚的な能力があり、僕たち鑑賞者は彼女の目を通じて色彩を人物の心理描写と重ねて読み取ることができたはずだが、この作品において色は単なるビジュアル的な装飾に留まっている。音楽に関しても同様で、「しろねこ堂」のメンバーが作り上げる楽曲は物語の進行を補助するだけの存在であり、彼らの心の内面を映し出すような表現にはなっていない。もっと音楽と色彩が響き合うような体験を期待していたのだが、聴覚的な体験としても視覚的なメタファーとしても、まるで機能していなかった。(きみちゃんのイメージを歌にした『水金地火木土天アーメン』のテクノポップなサウンドと、トツ子がきみちゃんに見た「綺麗なブルー」のイメージが結びつくことはなかった。)
さて、アニメーション映画では近年、音楽が映像を牽引する作品が目立っている。かつては「劇伴」として映像を補完していた音楽だが、現代ではその役割が逆転しつつあるといってよい。『君の名は。』(2016年)が上映された当時は「RADWIMPSのミュージックビデオみたい」と揶揄されたものだが、『竜とそばかすの姫』(2021年)のMILLENNIUM PARADEと中村佳穂や、『ONE PIECE FILM RED』(2022年)におけるAdoに代表されるように、今や音楽はアニメーション映画における中心的な要素となっている。(『BLUE GIANT』(2023年)が上映時間の四分の一をライブシーンに充てていたのも印象的だった。)
『きみの色』もこうした流れを意識して作られたものだと思うが、残念ながら表現の潮流を捉え損ねているように感じた。音楽と物語の結びつきが弱く、色彩と音楽というテーマの可能性が十分に活かされていないばかりか、むしろ安易な手法に感じられ、不快感を覚える鑑賞者さえいてもおかしくない仕上がりだ。山田尚子は『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』などのテレビアニメシリーズ、映画『リズと青い鳥』など、音楽を題材にした作品で高い評価を得てきた演出家・アニメーターであり、本作でも音楽が重要な役割を果たすことが期待されていただけに、その点での失望感は大きかった。
六月に映画『ルックバック』を見たばかりということもあって、どうしても京都アニメーションの凄惨な事件に対する思いを抜きには見られず(直接の被害者ではないが、山田尚子は事件当時京アニに在籍していたアニメーターの一人だ)、「祈りを捧げる」聖歌隊や礼拝堂というモチーフ、ニーバーの祈り(「神よ、変えることのできないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏を」)が出てきたときには、深い射程を感じてピリッと緊張した瞬間もあったのだが…。
物語の最後にはミスチルが出てきて「好きな色を手に取って描いていいんだ」と上手いこと歌って強引にまとめようとしていたが、さすがに無理があった。「さすがのミスチルも万能ではないんだなあ…」などと思いながら、呆然とエンドロールを眺めていた。
2024-06-06
台湾地下鉄暴漢事件と勇者ヒンメルの魔法
台湾の地下鉄で刃物を持った男に立ち向かった青年の勇気ある行動と、そのインタビューが大きな話題となっている。青年は恐怖に直面しながらも、漫画・アニメ『葬送のフリーレン』の登場人物「勇者ヒンメル」を思い出し、「勇者ヒンメルならそうするだろう」と自分を奮い立たせたと語ったのだ。
中捷纏鬥1分鐘「度秒如年」 長髮哥的勇氣來自動畫「芙莉蓮」(聯合新聞網)
この「勇者ヒンメルなら〜」という台詞は、作中において、ヒンメルの仲間たちが行動の理由を問われたときに必ず口にする言葉である。人々の優しさや勇気、利他的な行動を説明する際に使われるものだ。
『葬送のフリーレン』は、勇者ヒンメルたちと共に魔王討伐の旅を終えたエルフのフリーレンが、仲間たちが老い、亡くなった後も長寿種がゆえに生き続け、彼らの想いが受け継がれていく様子を見守る物語である。
フリーレンは、かつてヒンメルと旅をしていたとき、彼が行く先々の村で小さな頼みごとを快く引き受けたり、困っている人を助けたりする姿に疑問を抱いていた。それは魔王討伐という目的に対して明らかな寄り道に見えたからだ。膨れっ面をするフリーレンに対して、ヒンメルは微笑みながらシンプルな哲学を語る。「ほんの少しでいい。誰かの人生を変えてあげればいい。きっとそれだけで十分なんだ。」ヒンメルはいつか自分の想いが理解され、世界を変えることを信じていた。
勇者ヒンメルは、魔王討伐という大義だけでなく、人々のために尽くすことを生き方とした。彼の死後もその想いは受け継がれ、様々な形で人々の心に息づいている。「継承」はこの作品における大きなテーマだが、ここで描かれるのは、組織の制度や社会の仕組みによって執り行われる継承ではない。むしろ、魔法を管理する協会が時代ごとに入れ替わったり、かつて魔法使いの証明であった「聖杖の証」がただの首飾りとして扱われるようになるなど、システムは「脆いもの」として示される。対照的に強調されるのはヒンメルのような「想いに基づいた行動」であり、それは時に人々の命を救い、社会を変える力を持つ。台湾で起きた事件も、ヒンメルの想いが次元を超え、現実の人々の心さえも動かしたことを象徴している。
『葬送のフリーレン』の中で、僕が最も好きな言葉は「イメージできないものは魔法では実現できない」というものだ。魔法とは技術であり、知識や鍛錬によって習得するものである。ただし、その魔法で起こそうとすることを具体的にイメージすることができなければ、魔法を行使することはできない。この仕組みについては「魔法とはイメージの世界」「術者がイメージできない魔法は使えない」などと繰り返し説明されており、例えば、花畑を出す魔法を使うときには、目の前の地表が花いっぱいで埋め尽くされる姿を想像することができなければできない。僕はこれを、想像力の重要性とその可能性を語った、現実世界にも通じる至言として受け止めている。
ヒンメルは魔法使いでこそなかったが、「よりよい世界をつくる」ということについては誰よりも具体的なイメージを持っていた。そして願いを込めながら、そのイメージを自ら体現し続けたのだ。それはまさに魔法となり、僕たちの日々に大きな勇気を与えてくれている。
2024-03-14
必殺仕事記号
アニメ『葬送のフリーレン』の人気には、昨今のジャンプ系アニメの勢力が強大過ぎたからこそ生まれた、という側面があると思う。『SPY×FAMILY』『【推しの子】』『マッシュル』『呪術廻戦』『鬼滅の刃』など、個々にユニークな魅力はあるものの、同じ「ジャンプ味」のアニメばかり食べていたところに、サンデーから少し違った味が出されたからこそ多くの人々に深く刺さった、という見方だ。
そんな『フリーレン』の非・ジャンプ的なノリに一役買っているのが、句点記号「。(マル)」の存在である。サンデーの漫画には、セリフの最後に文末を示すマルが付く、という特徴がある。これによって このことがサンデー漫画には、特にフリーレンには深い影響を与えている。ジャンプ漫画と、サンデーマンガのノリの差に影響している。
『フリーレン』はJRPGの冒険ファンタジーの世界をベースにしており、魔族との激しい戦闘シーンもあるが、キャラクター同士の会話は文章的な言葉のやりとりを主体としている。それによって喜びも悲しみも落ち着いたトーンで穏やかに描かれ、コミカルな部分についても、キャラクターたちの訥々とした喋りが笑いを誘う形で成り立っている。こうした作風とマルの相性は非常に良い。恐らく、アニメにおいても、声優が読み上げる際の調子に影響を与えているだろう。(余談だが、なろう原作で同じく小学館からコミカライズされている『薬屋のひとりごと』でも、同様にマルがよく働いている気がする。)
マルについては最近、こちらは不名誉な働きとして「マルハラ問題」というものがあった。LINEのやり取りにおいて文末にマルが付いていると、読み手が「冷たい」「怖い」「威圧的」といった印象を受けるというものだ。こうした感じ方は若年層に多く、世代間ギャップとしても話題になった。
マルのない文体で話すジャンプのキャラクターがメインストリームを占めているからこそ『フリーレン』のキャラクターの言葉遣いが際立つように、SNSやLINEではマルのない投稿ばかりだからこそ、わざわざ付けられたマルは特別な存在として、元来期待された以上の働きを見せるようになっている。マルは人々の生活から影を潜めながら、ここぞというところで出てきてズバッと力を発揮する「必殺仕事記号」として世に暗躍しているのである。