ポストSNS時代のインターネットをデザインする
🎉 2026年5月「Chooning Ver.4」をリリースしました!
この記事は、リリースに寄せて書いた四方山話です。

音楽の感想やライブの思い出を記録する「Chooning」、全面刷新した「Ver.4」を公開。PCでも使えるWebブラウザ版の提供も開始。(PR TIMES)
「Chooning」が理想とする「00年代インターネット」の空気
「Chooning」を「こんな雰囲気にしたい」と思っているモデルケースがある。それは、僕が十代の頃に見てきた「00年代のインターネット」だ。
2002年に中学校に入学した僕は、iモードと前略プロフ、FC2ブログとmixi、2ちゃんねるとニコニコ動画、あるいはリネージュとメイプルストーリーといったものに囲まれて育ってきた。記憶の中でかなり美化されている部分もあるとは思うが、僕が大好きなインターネットの原風景はここにある。
そして、「Chooning」を作るにあたって特に理想のモデルとしているのが「mixiコミュ」の雰囲気だ。

中学校の教室で「俺みたいなナードな音楽好き野郎、他に、いますかっていねーか、はは」と呟いていた僕は、ある日mixiと出会って衝撃を受ける。そこには、学校では一人も話し相手がいなかった音楽に、1,000人規模の人が集まる「コミュ」なるものが存在していたのだ。
「mixiコミュ」──そこでは年齢も所属も関係なく、人々がただ好きなものについて対等に語り合っていた。ひたすらに偏執的な愛を語る投稿や、僕が生まれる前の伝説的なライブについての克明なレポートが書かれていたりした。単にマニアだけが集っているわけではなく、ライトなファンの書き込みも少なくなく、またそれが温かく受け入れられているのも印象的だった。
もともと僕は雑誌が好きな少年だったのだが、こうした「素人の個人的な情報発信」には商業メディアとはまた違った魅惑的な熱量があり、たちまちその空間の虜となった。もちろん、テキストサイトや個人ブログにも面白い記事はたくさんあった。だが「mixiコミュ」は、なんというか、書き手がもっと「普通の人たち」だったのだ。それは「文章」というよりも、生身の「声」であり「語り」であった。この体験が「Chooning」の原点、ルーツとなっている。

「Web 2.0」という希望と、SNSという絶望
高校時代、巷では「Web 2.0」が社会を変えるといわれていた。この頃すっかりインターネットにのめり込んでいた僕は、受験勉強そっちのけで梅田望夫ばかり読んでいた。そこには、誰もが書き手となる「情報の民主化」によって人々は主体的に知性を駆動させるようになり、既存のメディア体制は否応なしに塗り替えられていくという未来予測が示されていた。そのシナリオは数年後、スマートフォンの普及とともに一気に現実化していく。
大学に入った2009年の夏に「iPhone 3GS」が発売されると、それは瞬く間に同世代の間へと浸透していった。Twitterでの「Tsudaる」実況文化やUstreamによる動画配信が普及し、僕はますます「情報の民主化」教の敬虔な信者となっていく。「アラブの春」が起きたときは、人々がSNSを通じて独裁政権を打ち倒していく様子に胸を躍らせたし、「#OccupyWallStreet」のハッシュタグが都市名を変えながら飛び火していく流れには、まさにグローバリゼーション的な新しい連帯を感じた。学生ビジコンなども含め、大学構内は「ネットとスマホが世界をよくしていくんだ!」というムードに満ちあふれていたように思う。
しかし、2010年代の中頃から、だんだんとその雲行きが怪しくなってきた。いや、賢い人はもっと早くから気づいていたのかもしれないが、僕が事態の深刻さを認識したのは、ブレグジットやトランプ政権の誕生といった、SNSがもたらした強烈な社会の分断を目の当たりにしたときだった。
プラットフォームの商業化とアルゴリズムの最適化が進み、運営企業が「広告価値を最大化しよう」とする努力と、利用者の「アテンション(注目、関心)を集めよう」とする欲望が悪魔合体した結果、いつの間にかSNSはマトモな場所ではなくなっていた。特に、アテンションが与える快楽は発信者たちを蝕み、過激な発言で注目を集めようとしたり、人々の感情を逆立てるために事実を歪曲したり、あるいは冷笑し自分を賢く見せようとする態度がプラットフォームを支配するようになった。そして「アテンションを換金できる仕組み」が普及し、ショート動画という劇薬が投入されたことで、状況はさらに悪化の一途を辿る。
これらは民主主義という統治を揺るがし、国際政治をも軋ませ、現実に人々の生活を脅かすようになった。「Web 2.0」が謳った理想は、いまや影も形もない。

「Chooning Ver.4」というオルタナティブ
2020年にリリースした「Chooning」は、先月、三度目のメジャーアップデートを行った。
新しい「Chooning」の最大の特徴は、これまで掲げてきた「音楽好きが集まるSNS」というあり方を改め、「音楽の記録を残すための場所」と定義し直したことだ。「交流」から「記録」へ、という方針転換である。

もともとこのプロダクトは、サブスク(音楽配信サービス)が普及し、新しい作品が次々と配信される状況下で「一つひとつの音楽と向き合う機会が減っている」という課題意識からスタートしたものだ。そこで「サブスクと連携した音楽専用の情報空間」を作り、音楽と向き合う時間を増やすことで、人と音楽との関係性をよくしていこうと働きかけてきた。
便宜上、これを「音楽専用のSNS」と呼んではいたものの、実のところ、ずっと既存のSNSとは違う「別の何か」を模索し続けていた。
既に書いた通り、SNSという環境では、発信した言葉のすべてが「評価」や「注目」の対象になってしまう。投稿の下に並ぶ「いいね!」の数や「閲覧数」、プロフィールにある「フォロワー数」といった数値は、その投稿や発信者の内容よりも一歩前に出てきて、あたかもそれらの価値を示すように機能してしまう。僕たちはSNSの上で情報に接するとき、どうしてもこの評価システムを内面化してしまい、影響を受けざるを得ない。
この構造的な問題は批評家の宇野常寛によって既に説明されている通りだが、こうした環境に置かれると、やがて発信者の関心は「アテンションを獲得するためにどう振る舞うか」という、人間関係の政治性へと向かっていく。
本来、僕が「Chooning」でユーザーに過ごしてほしいのは、自分が出会った楽曲にじっくりと耳を傾け、そこで湧き上がった感情と向き合うような時間だ。しかし、空間が「SNS的」になっていくと「今このタイミングでこの曲を投稿しておけば『いいね!』がたくさん貰えるのではないか」「あの人と良好な関係を保つために、フォロワーになっておこう」といった世間の顔色伺いが生まれてしまう。こうなると、本来言及する対象であったはずの「音楽」は、ただの「承認や関心を獲得するための交換材料(ネタ)」として消費されるようになり、「音楽と向き合う時間を大切にする」というポリシーとはまったく逆の状態を招くことになる。
そこで僕は、発信者が他人の目を一切気にせず、自分の好きな音楽のことだけを考えて発信できる情報空間を作るために「SNSのオルタナティブとなる場」を考え続けてきた。これまでもその発想に基づいて小さなアップデートは重ねてきたが、今回、「Chooning Ver.4」として全体を一新することで、ようやく「理想を形にすることができた」と思う。
「自己幻想を可視化する」体験のデザイン
では、この思想をどのように実際のインターフェイスに落とし込んでいったのか。具体的なプロダクトデザインの話をしていこう。
まず取り組んだのは、「アテンションの快楽」が発生する構造をすべて取り払うことだ。「いいね!」機能は置かない。フォロー・フォロワーの関係性を作らない。ランキングのような「注目されることが価値である」と思わせることをしない。投稿に対して絵文字で反応する「バイブス」や「コメント」といった機能はあるが、それらの数量があたかも投稿のスコアであるかのように見える構図にならないよう、慎重に画面をデザインした。
しかし、単に禁欲的な空間を作って「一緒にアテンション断食しようぜ!」と誘いかけたところで、誰もついてきてはくれない。動員のためには、SNSが提供する「アテンションの快楽」とは別の「新しい快楽」を提供する必要がある。
ここでヒントとなったのが、吉本隆明の「共同幻想論」を情報社会論に転用した宇野常寛の議論だ。僕は、宇野常寛がSNSにおけるマイページを「自己幻想が宿る場所」と位置づけていることから、UXデザインの着想を得た。
「Chooning Ver.4」が提供するのは、自分が愛した音楽の記録がマイページに積み上がっていくという「自己幻想を可視化する快楽」だ。次々と消費されていくサブスクの濁流の中で、自分がその楽曲とどう向き合い、どんな時間を過ごしたのか。その記憶を、ジャケット画像や楽曲データを使って形にし、デジタル空間に刻みつけていくことで自分という存在を記述する。僕は、これが「アテンションの快楽」に匹敵しないまでも、それなりに多くの人に楽しまれるものになるはずだと考えた。
ここで誤解してほしくないのは、この「自己幻想」とは、決して他人に自分をよく見せるための「ファッションとしての自分語り」ではないということだ。他者の評価にとらわれるSNSのタイムラインから離れて、「自分が本当に好きなものは何だったのか」という、自分自身との対話を取り戻すための、極めて内省的な営みのことを指している。
それは、自室の本棚に好きな作品を並べていくことだったり、MacBookの天板をサグなステッカーで埋めていくことや、ガレージで愛車をカスタマイズするような体験と通じるものがあると思う。あるいは、誰かに会う予定がなくても自分の気分を上げるために好きな服を着たり、お気に入りの色でメイクをすることにも似ているかもしれない。人に見せるためではなく、ただ自分の「好き」という感情をそこに物質化し、この世界に自分の居場所があることを確かめるためのプロセスだ。

「コ・プレゼンス」のデザイン
今回のリニューアルで最も悩んだのは、「そもそもユーザーをソーシャルな空間に置く必要があるのか」という点だ。プロトタイプでは、iOSのメモアプリや「Evernote」のようなクローズドなあり方も模索し、「読書メーター」「ブクログ」「Filmarks」といったアーカイブ系サービスを研究しながら、長期に渡って友人に議論に付き合ってもらったりもした。
そうして辿り着いた結論が、「ソーシャル・ネットワーキング(人間関係の構築)はしないが、コ・プレゼンス(他者の気配)を感じられる空間にしよう」という開発方針だった。
例えば、「Chooning」には「フォロー・フォロワー」という関係が存在しない。「ウォッチ」というボタンはあるが、これは単に自分が対象ユーザーの投稿を見逃さないようにするための、一方的な購読機能でしかない。
そしてウォッチにおいて「誰をウォッチしているのか」ということは「ウォッチした本人」以外は分からない。例えば、僕があるユーザーのプロフィールを見たときに「そのユーザーが誰をウォッチしているのか」という情報が表示されていない。また「自分が誰にウォッチされているのか」も分からない仕組みになっている。
これらの仕様は、自分や相手がどのような人間関係上にプロットされているのかを分からなくすることで、「社交」や「人付き合い」が抑制される効果を期待するものだ。つまり「Chooning」はユーザーを「ソーシャル・ネットワーキングしないように」意図的にデザインされているのである。

一方で、投稿者をウォッチしていなくても、話題が一致していれば、その人の投稿がフィードに流れてくるようになっている。これにより、フィードを見渡せば、誰かが(自分が興味のある話題で)話している、ということが、読み流しも可能な程度に伝わってくる。これが僕が表現したかった「コ・プレゼンス(他者の気配)」である。
もちろん、「Chooning」ではユーザー同士のコミュニケーションを「禁止」しているわけではない。コメント機能もあるし、そこから人間関係が発展していくことだってあるだろう。しかし「繋がろうと思えば可能であること」と「繋がることがシステムやアルゴリズムによって推奨・強制されていること」の間には、大きな違いがある。
実は、僕はこの半年間の開発を、台北のカフェやコンビニのイートインで行っていたのだが、この経験が「人間関係は作らない」が「孤独を感じない」空間デザインをする際のモチーフとして大いに役立った。
外国人として暮らす僕は、日常生活で周囲に馴染めない場面も少なくないが、台北のカフェにおいてはそういったことを感じずに、安らかな時を過ごすことができた。カウンターで飲み物を買って席に着くと、そこには自分と同じようにパソコンを広げて仕事している人や、参考書を並べて勉強している人がいて、僕は彼らと決して人間関係があるわけではないのに、その存在に安心させられている。Webサービスを使う体験にも、この「都市的な居心地のよさ」を「理想的な他者との距離感」として採用できないだろうか、と考えたのだった。
重要なのは、そこにきちんと安心感が宿ることである。「自分と同じように音楽を愛する人たちが、この世界に確かに存在している」ということを感じさせることで、コミュニティに所属するのとはまた違った形で、「他者の存在に守られている」安心感が得られるような状況を作ろうと試みた。
「ソーシャル・ネットワーキングしない」ことと「他者の存在による安心感」を両立させた空間を作り、そのなかにユーザーを置くこと。このバランスはとても難産だったが、最終的にはうまくインターフェイスに落とし込めたと思っている。


さいごに
「Chooning」は、00年代のインターネットに夢を見て、10年代のSNSに打ちのめされた僕が、現代の情報社会論の議論を手繰り寄せながら、20年代のオルタナティブとして開発しているプロダクトだ。
僕は、「音楽について語ること」が承認獲得のための行為ではなく、自分が音楽と過ごした時間を確かめたり、その思いを大切に育んでいくことであってほしいと願っている。投稿を重ねることで、自分がどのような音楽を愛し、どのような時間を過ごしてきたのかが少しずつ形になっていくこと。それが、同じように音楽を愛する誰かの存在を感じられる空間で行えること。これこそが「Chooning」の価値だ。
今回「納得のいく作品を世の中に出せた」ということでひとまず満足し、一息ついているのだが、もちろん経験上「プロダクト開発の面白いところはここから先にある」ということもよく分かっている。Webサービスやアプリは、リリースして終わりではなく、ユーザーの反応を見ながら随時アップデートを重ね、一緒に育てていくことができるからだ。
だから、もし新しい「Chooning」を気に入って、この先の展開を楽しみに思ってくれたら、どんなに小さなことでもいいので、その気持ちをインターネットのどこかに発信してみてほしい。作り手は、そうした声から本当に大きなエネルギーをもらっている。
僕たちはせっかく自由に発信できる社会に生きているのだから、その力を、もっともっとポジティブなことに使っていこう。