The shoulders of Giants
食事
二人で「いただきます」と手を合わせて食べ始める。二谷はきゅうりをつまんで「おいしい」と言い、からあげをつついて「おいしいなあ」と言い、味噌汁を飲んで「うまい」と言った。
十五分ほどで食べ終わる。仕事から帰ってすぐ、一時間近くかけて作ったものが、ものの十五分でなくなってしまう。食事は一日に三回もあって、それを毎日しなくちゃいけないというのは、すごくしんどい。だから二谷は、スーパーやコンビニに行けばそこに作られたものがあるんだから、 わざわざ自分たちで作らなくたっていいんじゃないかと思っている。思っているけど、それを言う代わりに「おいしい」と言っている。ただ毎日生きていくために、体や頭を動かすエネルギーを摂取するための活動に、いちいち「おいしい」と感情を抱かなければならないことに、そしてそれを言葉にして芦川さんに示さなければならないことに、やはり疲れる。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
「二谷さんは、ごはんを食べるのが面倒で、でも食べなきゃいけないのが、嫌なんですか?」
尋ねて見つめる、二谷さんの目の奥が暗い。「それの周辺も含めて嫌い」と、二谷さんが答えた。 この人を分かりたいという気持ちと、その日のままでいてほしいという気持ちの両方がある。周辺って? と続けて尋ねる。
「ごはん面倒くさいって言うと、なんか幼稚だと思われるような気がしない? おいしいって言ってなんでも食べる人の方が、大人として、人間として成熟してるって見なされるように思う」
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
ちゃんとしたごはんを食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの惣菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、ほんとうに自分を大切にするってことか。野菜を切って肉と一緒にだし汁で煮るだけでいいと言われても、おれはそんなものは食べたくないし、それだけじゃ満たされないし、そうすると米や麺も必要で、鍋と、丼と、茶碗と、コップと、箸と、包丁とまな板を、最低でも洗わなきゃいけなくなる。作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、 それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
「二谷さんと食べるごはんは、おいしい」
押尾さんがほほ笑んで言う。ほほ笑んでから言ったというよりは、その言葉を言うために唇を動かしたら目じりや頬も一緒に動いた、という感じのほほ笑み方だった。
「二谷さんは目の前にある食べ物の話をほとんどしないから、わたしも、これおいしいですねとか、すごいふわふわとか、いちいち言わないで済んで、おいしくても自分がおいしいって思うだけでいいっていうのが、すごくよかった。おいしいって人と共有し合うのが、自分はすごく苦手だったんだなって、思いました。苦手なだけで、周りに合わせてできてはしまうんですけど。甘いのが好きとか苦手とか、辛いのが好きとか苦手とか、食の好みってみんな細かく違って、みんなで同じものを食べても自分の舌で感じている味わいの受け取り方は絶対みんなそれぞれ違っているのに、おいしいおいしいって言い合う、あれがすごく、しんどかったんだなって、分かって。二谷さんとごはんを食べる時はそれがなかったからよかった。一人で食べてるみたいで。でもしゃべる相手はいるって感じで。[…]」
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
なんでみんな、食べるんだ。おいしいものを食べようとするんだ。もっと食べたい、なんでも食べたい、がしんどい。なんでケーキで祝うんだ。砂糖の塊で口の中をべちょべちょにして、おかしいんじゃないか、みんな。なんでみんな、こんなにも食べずにはいられないんだ。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
何処か遠くの、自分にはまったく馴染みのない国で作られた作物を食べるということ。それは、その作物を育んだ土地の歴史を肉体の一部として所有することです。こういう言い方がロマンチック過ぎるのであるならば、少なくともその地の一定の時間的経過を物質の形で摂取することだと言い換えてもいいでしょう。その作物を育んだ土が提供する栄養は、そもそもの地質と、気象条件と、そこで起こった様々なこと(戦場であったこともあれば、荒野であったこともあるでしょうし、その後に耕され、肥料を与えられたことも含めて)とが複雑に影響しあった結果です。
(平野啓一郎、2006『文明の憂鬱』新潮社)
食事というものは、広義に「あまじょっぱい」ものだ。甘みのある穀類を、塩気(と甘み)のあるおかずと一緒に食べるのだから。あまじょっぱい、それは、生と死の、有機と無機の、エロスとタナトスの往還に他ならない。食事は、死に近づこうとする自己破壊の実験でもある。満腹になって眠くなる(あるいは、セックスをして眠くなる)。満腹になって仮死状態になる。食事は、生きて考える持続を中断することである。生きて考えることに疲れ、倒れ込むようにしてなされる食事は、実質的にエネルギーの回復であっても、形式的・儀式的には、死のシミュレーションでありうる。労働の後で、もういい、もうだめだと、食事へ倒れ込むのである。逆に、 食事を死のシミュレーションにしない=生の持続をそのまま延長するためには、食べすぎてはいけない、つまり、眠くならないように調整する(労働の前の少しの朝食、労働の途中に補給する糖)。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)