たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
The shoulders of Giants
たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
音楽を人に届ける段階に入って必要なのはやっぱりコミュニケーションで、独りっきりで思い込みの強い状態でやるよりも複数人とやったほうがより多くの人に届くだろう、というのはいつも思うことである。いわばアレンジャーやレコード会社の人、MV監督というのは最初にアーティストが思いついたアイデアを世間に伝えるコミュニケーションのプロなのである。ただこうしてフィルターが多数入っていくと、ただでさえぼんやりした音楽というものの輪郭がさらにぼやけてしまい、自分の作ったもの、という感覚から離れてしまうような錯覚に陥る。自分に関して言えば一定の割合以下の作業しかしていないものに関しては急激に記憶の中から薄れてしまうという現象がある。自分が決めている範囲というのは個性を決定する上でとても大事な要件だと思う。
(tofubeats、2022『トーフビーツの難聴日記』ぴあ)
私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。
だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
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