The shoulders of Giants
身体
ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
このように検討を進めてくると、七〇年代以降の〈新宿的なるもの〉の衰退が、われわれの身体感覚の変化とどう連動していたのかも明らかになってくる。六〇年代、「新宿」に集った人びとが醸成させていたのは、かつての「浅草」と同様、〈触れる=群れる〉という身体感覚であったと考えられるが、このような〈触れる=群れる〉ことは、関係性の回路の限定を不可能にし、われわれが前に「共同性の交感」と呼んだ変幻自在で自己増殖的なリアリティを構成してしまう。ところが、こうしたリアリティのあり方は、散乱する〈未来〉にとっては雑音として以上の意味をもち得ないのだ。
つまり、右にみたような〈演じる〉という身体感覚にとっては、種々雑多な身体が触れあい、群れていることは、ただたんに「ダサい(ナウくない)」のであり、「可愛くない」のである。したがって、七〇年代以降の都市空間で突出してくる〈演じる〉ことは、こうした〈未来〉への係留にとって雑音にしかならない諸存在を視界の外に排除していこうとする傾向を強くもつことになる。そこでは、他者たちとの直接的な関係はどちらかというとアリバイ的なのであって、むしろ人びとは、都市空間の提供する舞台装置や台本に従って、すでにその意味を予定された役柄を場面ごとに〈演じて〉いくことで、逆に他者たちとのコミュニケーションのコードを共有しているのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
〈演じる〉とは、他者たちの前で「本当の」自分とは異なる「虚構の」人物に扮し、あたかも自分がそうした人物でもあるかのように振舞うことである。つまり、一方に〈演じる〉主体としての「私」がおり、他方に〈演じられる〉対象としての様々な「役」がある。前者は後者を場面に応じて選択し、操作していくことを通じて、〈演じる〉という行為を行っている。そしてその場合、モデルとなっているのが、狭義の「演じる」、すなわち舞台上の俳優の演技であることはいうまでもない。
だがしかし、実のところ舞台上の演技とは、こうした「偽りの」自己の呈示とは、本質的に異なる性質のことがらである。多くの優れた演技においては、〈演じる〉ことの前にそうした操作を行う主体としての「私」やその対象としての「役」が存在しているわけではない。〈演じる〉という操作そのもののなかで、演じる「私」と演じられる「役」が同時的に発生してくるのであり、俳優は、そうした「私/役」の発生の現場に立ち会っているのだ。俳優は、登場人物に扮するのではなく、〈演じる〉ことを通じて登場人物を発見するのである。
[…]
〈演じる〉ことのこうした根源的なあり方が、たんに舞台上での「私」と「役」の成立についてのみ当てはまるものではなく、日常の生活場面における自己と他者の成立にも通底していることはいうまでもない。M・メルロポンティが精密に論証したように、われわれの自己なり他者なりが成立してくる存在論的淵源は、見るものと見られるもの、触わるものと触わられるもの、感じるものと感じられるものが、互いにもののただなかから生起してきて交流し、反響する、その閾に求められる。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
「でも? やっぱり自分の脚は嫌いなの?」
「はい」
「そうか」
E藤先生は笑った。
「これは医者としてじゃなく、一人の人間として言うんだけど、怒らないでね」
「怒りませんよ」
「私は、あなたが人よりうんと頑張れる人になれたのは、その脚のお陰なんじゃないかと思うわ」
E藤先生はひらりと立ち上がった。私の脚からしっとりした手の感触が消えた。私はジーパンを上げるのも忘れ、長いあいだ壁を見ていた。
ねえ、あなたの脚が、ずっとずっと、あなたを守ってきてくれたんだとは思わない?
(石田夏穂、2023『ケチる貴方』講談社)
「もし、なんていうの、下半身が着脱式で、セックスするときに好きなほうを選べるみたいなことになったら、私絶対男性器を選ぶし挿入する側に回る自信があるんだよね。幹事とか運転役に自然になるみたいに、そういうときもそっち側のほうが絶対しっくりくるはずなの」
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
あまり自覚されることはないが、20世紀とは「映像の世紀」であるのと同程度には「エンジンの世紀」でもあった。そして前世紀後半のオートバイと自動車の大衆化は、先進国に「交通戦争」とすら呼ばれる状況をもたらした。つい半世紀前まで、この国でも交通事故の死者は1万人を超えていた。しかし、今日においてそれはおよそ1/3以下に減っている。自動車の安全性能の向上、政府の法規制と啓蒙の強化がその主要因と言われているが、同時に人類がエンジンのもたらすスピードという幻想、それを手にしておよそ100年で醒めつつあることが指摘できる。片岡義男(『スローなブギにしてくれ』『彼のオートバイ、彼女の島』)からしげの秀一(『バリバリ伝説』『頭文字D』)まで、20世紀のポップカルチャーにおいて定位置を占めていたこれらの機械への欲望は大きく後退している。強く、大きく、そして「速い」機械による身体拡張の快楽に人類は酩酊し、それがつい数十年前までは工業社会下における男性性の成熟と重ね合わされていた。しかし、21世紀の今日に生活の必要とは無縁にこのような文化に親しむ人々は、次第にかつての香港のカンフー映画を愛好する人々のようにレトロな文化に親しむ趣味人と見なされつつある。
(宇野常寛、2023「いま必要なのは「新しい生活様式」の反省と再評価だという話」note)
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
(新約聖書「コリントの信徒への手紙」12章 15〜19節)