言葉は光だ。私が目で世界を見ているのは、光があるから。同じように言葉で照らせばそこに世界が浮かぶ。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
The shoulders of Giants
言葉は光だ。私が目で世界を見ているのは、光があるから。同じように言葉で照らせばそこに世界が浮かぶ。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
ZINEやリトルプレスと呼ばれるような小さな出版物をよく手に取ります。とりわけ惹かれるのは日記です。日常を綴るための言葉、普段遣いの言葉は、辞書には載っていなかったり、文法的に見たらおかしなところがあったりするかもしれないけれど、いわんとすることは実感としてたしかに伝わってくる。このうねり、グルーヴ感に身を委ねていたいと感じるような言葉。校正を通した出版物ではあまり見ることのない、野の言葉とでも呼びたいような言葉にふれると、書くことはもっと自由でいいのにと思います。
(牟田都子、2022『文にあたる』亜紀書房)
「ああ、まったく」と「先生」は頷く。「実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、そんなことはどうでもよいのだ、使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ! 私のメフィストフェレスも、シェイクスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェイクスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものを作り出さなければならないのだろうか? 芸術には、すべてを通じて、血統というものがある。かつてのドイツの若者は会話の節々で聖書を引用することができるように教育されたが、それは結局、感情や事件というものが永遠に回帰することを暗示し明示するのだ。我々の思想を表現するのに先人の吟味された教養ある言葉を用いるとき、彼らが我々の心の奥深くを我々以上に巧みに開いて見せることを認めるのだ。巨匠を見れば、常にその巨匠が先人の長所を利用していて、そのことが彼を偉大にしているのだ」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
「 […] でもね、言葉はどこまでいっても不便な道具です。使い慣れる、ということがない。僕は未だに和子と喧嘩するよ。たまに会う若い学生さんの言葉を遮りもする。誰かの言っているとが全然分からなくて、耳が悪いふりで誤魔化したり……その代わりになるものがなかなか見つからないから、ずっと使っているだけのことでさ。僕はねぇ、こう考えたことだってあるんだよ? 例えばセックスはどうだろうって?」
學がこんな露骨な単語を口にすることに統一は眉を顰めると同時に、思わず姿勢を正してしまう。
「うん、これは言葉より確かだ。近く感じる。何より温かい。でも続かない。やはり、僕は言葉の方が性に合う。何かと刹那的な感覚に辟易している世代だから、不変的な、それでいて普遍的なものが欲しいんですね。そして、結局、僕には祈りしかなかったんだよ。つまり、今自分が語っている限界のある言葉を、聖霊が翻訳して、神に届けてくれる。それによって、何はともあれ、すべてやがてよしとなる、と信じること。もしかしたら、あらゆる言葉は何らかの形で祈りになろうとしている、ともいえるかもしれない、とこう思うんだね……や、悪いなぁ、君にはいつもこうやってお説教をしてしまって。 […] 」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。
だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
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