The shoulders of Giants
芸術/アート
「ああ、まったく」と「先生」は頷く。「実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、そんなことはどうでもよいのだ、使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ! 私のメフィストフェレスも、シェイクスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェイクスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものを作り出さなければならないのだろうか? 芸術には、すべてを通じて、血統というものがある。かつてのドイツの若者は会話の節々で聖書を引用することができるように教育されたが、それは結局、感情や事件というものが永遠に回帰することを暗示し明示するのだ。我々の思想を表現するのに先人の吟味された教養ある言葉を用いるとき、彼らが我々の心の奥深くを我々以上に巧みに開いて見せることを認めるのだ。巨匠を見れば、常にその巨匠が先人の長所を利用していて、そのことが彼を偉大にしているのだ」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
グラフィック・デザインの目的は、イヴェントにせよ商品にせよ、何かが存在していることの告知である。知らされなければ、それは、そもそも存在していないかのように黙殺されてしまう。ポスターは、「ここにこれがある!」ということを、美の力を借りて訴えるのであり、結果、その表現は芸術の域にまで高められることもある。
しかし、芸術とはその実、資本主義とも大衆消費社会とも無関係に、そもそも広告的なのではあるまいか?──例えば、燃えさかるようなひまわりの花瓶がある。草原を馬が走っている。寂しい生活がある。戦争の悲惨さがある。自ら憎悪を抱えている。誰かを愛している。誰からも愛されない。……すべての芸術表現は、つまるところ、それらの広告なのではないか?
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
ルネッサンスとは何だったのか? たとえば、聖母マリアを例に取ると分かりやすい。マリアを描き、彫刻に彫るときの大きなテーマはキリスト教の祈り。ルネッサンスの始まりは、そのマリアを荒々しいリアリズムで表現したことにあったそうです。
それが、時代が進むと、マリアにはその古典となるべき完成形が誕生し、さらに時代が進むと、今度は細部にこだわるようになり、最後はぎらぎら飾り立てるものになったといいます。細部にこだわったときには、本来のテーマであった「祈り」はどこかへ行ってしまい、残ったのは、たんなる女体だったそうです。
以上をまとめると、アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロックという流れになり、美術の歴史はこの四つのサイクルの移り変わりになるというのが高畑さんの説です。
(川上量生、2015『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』NHK出版)
これまで「意図の誤謬」(Intentional Fallacy)や「作者の死」(La mort de l’auteur)の名の下に、芸術家の意図は批評行為から排除されてきた。「誤読の権利」や「読みの多様性」と称して、作家の思想を恣意的に排除する身振りは、あまりにも怠慢であったと自省しなければならない時期にきている。作家のコード化のプロセスもまた作品を見極める重要なポイントに違いないからだ。
ただし、意図が表現に明確に反映されている場合もあれば、それを裏切って異なる表現が成立していることもあるだろう。むしろ作者が語り得なかったこと、あるいは作家の無意識的な実践のほうに芸術批評の営為は向けられるべきである。真に創造的な表現者は、意図やコントロールを超越したところで優れた作品を産み落とす。作品には(無意識的に)厖大な日常経験や偶発性が投影されているのだ。それを見逃すことなく作品の細部を見出すこと。そして作品が生成する歴史的条件=コンテクストにも目を配ること。そうすることで作品の内部に思いがけない作家の実践を発見し、作品を捉え直すことができると同時に、予想だにしない作品同士が共鳴し始めることだろう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)