たとえば誰かを介護しなければならないとして、そのときその人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまいます。あるいは、介護される側からしても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監視されていると感じるようになってしまいます。たとえ人間関係においてつながりが必要だとしても、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々は互いの自律性を維持できないのです。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能にしているのです。
(千葉雅也、2022『現代思想入門』講談社)
The shoulders of Giants
たとえば誰かを介護しなければならないとして、そのときその人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまいます。あるいは、介護される側からしても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監視されていると感じるようになってしまいます。たとえ人間関係においてつながりが必要だとしても、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々は互いの自律性を維持できないのです。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能にしているのです。
(千葉雅也、2022『現代思想入門』講談社)
遠くに行きたかった。遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。両親も弟も繰り返しを繰り返していた。おれは多分それが嫌だった。遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。自転車便をやっていた頃の後輩がいつだったかに言っていた「ゴール」も多分そこのことだった。
「ほんの少しだけ違うことをさ、認めるだけでおんなじような毎日が、だから変わっていくんじゃないかなあ。ぼくもさ、ずっと変わらない毎日を変わっちゃいけない毎日だと思い込もうとしてたから苦しかった気がするんだよなあ」
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
何不自由ない子供時代を与えてくれて有り難かったとは思うけれど、母のような犠牲者にはなりたくない。色々なことから自由でいたい。たかが、住む場所や食べるもののことで、命や心を削るなんて本末転倒ではないか。本来幸せに暮らすために必要な作業で不幸せになるなんて、これほどの矛盾があるだろうか。
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
子どもの頃のほうが大人の今よりも自由だった人がどれくらいいるだろうか。扶養されていたぶん、労働せずに済んだという意味で自由だった人はいるだろうけど、代わりに多くの義務を背負わされていたはずだ。
私が大人だなぁと思うのは、その種の義務全般から自由であるような人である。たとえば仕事をほっぽり出して失踪しちゃうような人は「大人〜」って感じる。もちろん、学校をほっぽりだして失踪しちゃう子どもにも「大人〜」と思う。
「大人=無責任」という単純な話ではない。義務のたぐいがあるということを理解していて、その上で、そんなのはゲームのルールに過ぎない、とわかっている人──心の底からはゲームを信じていない人──が大人だと感じる。遊びに心から没頭するのは子どもっぽい。だから、大人は責任や義務からも醒めていなければならない。
(品田遊、2022『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』朝日新聞出版)
そもそも、人間にはなぜ自由が必要なのでしょうか。ミルの考えでは、それは人間の可謬性と高い修正能力ゆえです。つまり、人間はえてして判断を誤るが、それを自由な討論によって修正する能力にも富んでいるというのです。それゆえ、ミルは自由の確保を「自分自身の可謬性に対して予防策をとる」ことと見なします。これは一種の「リスクヘッジ」と言い換えてもよいでしょう。[…]
人間は誰でも失敗する。この誤謬の可能性を織り込んで、人間の考えを最大限に多様にし、オープンな討論を経て意見を修正してゆくことが、ミル的な自由主義の基本的な考え方です。
(福嶋亮大、2022『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』星海社)
〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。
(國分功一郎、2011『暇と退屈の倫理学』朝日出版社)
ZINEやリトルプレスと呼ばれるような小さな出版物をよく手に取ります。とりわけ惹かれるのは日記です。日常を綴るための言葉、普段遣いの言葉は、辞書には載っていなかったり、文法的に見たらおかしなところがあったりするかもしれないけれど、いわんとすることは実感としてたしかに伝わってくる。このうねり、グルーヴ感に身を委ねていたいと感じるような言葉。校正を通した出版物ではあまり見ることのない、野の言葉とでも呼びたいような言葉にふれると、書くことはもっと自由でいいのにと思います。
(牟田都子、2022『文にあたる』亜紀書房)
目の前で苦しんでいるひとがいたら、自分の利害はともかく、とりあえず放っておけないという憐れみの感情。反省以前の情念。精神分析の言葉を用いるならば「無意識」の反応。じつはローティは、たいへん興味深いことに、そのような心の状態こそを「リベラル」と呼ぼうという提案を行っている。「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである」と彼は宣言している。これはずいぶんと奇妙な提案である。というのも、「リベラル」ないし「リベラリズム」は一般には、あらためて指摘するまでもなく、自由という理念を重視する人々、およびその思想を意味する政治用語であり思想用語だからである。にもかかわらず、ローティは、それをあえて、理念を必要としない、身体的な反応を意味する言葉として捉え返した。ここには明らかに、自由とは、抽象的な理念ではなく、むしろ、動物としての人間がたがいに憐れみを抱き感情移入をしあう、その具体的な状態をこそ意味する言葉だったのではないか、そのような問題提起が込められている。
(東浩紀、2011『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社)
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