The shoulders of Giants
自己/他者
都市は「読まれるべきテクスト」である、という言い方がたとえできるとしても、ひとはそれを、まるで書物を読むときのように椅子に腰かけて「外側から」読んでいるわけではなく、字義通りの意味で身をもって都市のなかに入り、そこで歩き、働き、遊び、食べ、憩うことを通じて、自分でも気づかない間に「内側から」読んでいる。そしてその際、彼は他者のまなざしに晒され、自らテクストの登場人物ともなっている。
つまり、都市というテクストにあっては、テクストの読者とテクストの登場人物を区別することができない。読む者と読まれる者、まなざす者とまなざされる者の関係は最初から相互媒介的であり、ひとは、そうした二重の役柄を無意識のうちに演じているのだ。ただしその場合、彼はこの都市=テクストのなかに自由に参入できるわけでは必ずしもない。都市のなかの読者/登場人物のまなざしの布置は、都市を構成する諸装置によって条件づけられており、ひとは、これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができるのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。それは不思議なことで、なんとなくかわいいと思っていた時よりも、彼女の弱いところにばかりに目がいくようになった後の方が、想像の中の彼女は色気を放った。聞いたことのないはずの種類の声で、彼女はいつも泣いている。彼女が泣けば泣くほどよかった。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。
(井戸川射子、2024『この世の喜びよ』講談社)
「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。 […] 」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。──同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが、他者の存在のどこを探ってみても、見出せないということ。
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)
たとえばセックスから介助まで、身体の接触を伴うコミュニケーションでは、言語外の、無意識の領域も含めた双方向的なコミュニケーションが発生する。このとき相手を独立した存在として尊重しつつ、互いの身体の一部を同化させることが要求される。こうしたコミュニケーションが成功したとき、自己の一部が他者と融解することで、自己を維持したまま他者に向けて開かれる。
セックスにおける相互の自己滅却の欲望が交錯した結果もたらされる生成から、介助者と被介助者との間に発生する生成まで、ときにロマンチックな修辞を凝らして語られるコミュニケーションの共通点は、自己を部分的に滅却し、他者と部分的に同一化することが、その対象を他の人間と交換することのできない存在であると認識させる点にある。このとき「私」は「私たち」になる。
(宇野常寛、2022『砂漠と異人たち』朝日新聞出版)
なぜ人間がコミュニケーション=交換を行うかを問うても意味はない。コミュニケーションをし続ける存在が、つまり人間なのだ。
ここで「私という中心がある」ことを前提とする西洋的な近代哲学が解体されることになる。「私」が自由意志によって誰かとコミュニケーションしようとする、という前提は、「コミュニケーションの環を途切れさせないために、私がいる」というふうに、まるっと転倒させられる。人間がコミュニケーションを道具として「使っている」のではなく、コミュニケーションに人間が道具として「使われている」。[…]
イルカと一緒に泳ぐ時に、言語とは違うカタチで人間とイルカはコミュニケーションを交わす。農家が「明日は風が強そうだ」と予想して畑の作物に覆いを被せるのは、人間と植物のコミュニケーションだ。
自分の外側にある異なるものと自分の身体が相互にコミュニケーションした結果、そのフィードバック(作用)として私というものがあらわれる。最初から確固とした「私」がいるわけではなく、誰かとコミュニケーションを交わしてはじめて「私」が見えてくる。
(小倉ヒラク、2017『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎)
パート先の常連客の言葉に傷ついて母の胃に潰瘍ができたり、泉が彼氏の言葉に耳を真っ赤にしたりするのを見ればわかる。自分だけの体を持っている人はいない。みんな気がついていないだけで、みんなくっついて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。
(朝比奈秋、2024『サンショウウオの四十九日』新潮社)
中島岳志は、「合理的利他主義」が、自ら「利他」だと思った行為が、そのまま利他として受け取られることが前提となっていることの危うさについて触れ、与え手が意思をもって利他的行為をしても、それが利他であるかはわからないという。
自分の行為の結果は所有できるものではない。あくまでも与え手の意思を超えて、 受け手がその行為を「利他的なもの」として受け取ったときに、初めて相手を利他の主体に押しあげることができるのである。
伊藤亜紗は、「私の思い」による利他的な行為が他者をコントロールし、支配することに警鐘を鳴らす。これをすれば相手は喜ぶはずだという利他の心は、善意の押しつけにもなりうるし、容易に他者の支配へと転じるという。
[…] だからこそコントロールを手放す。不確実性を受け入れる。伊藤は「うつわ的利他」という言葉で、相手が入り込める「余白」をもつことの重要性を説いている。 […]
伊藤はまた、他者への「ケアとしての利他」に意外性を見出す。行為者の計画通りに進む利他は押しつけになりがちだが、ケアとしての利他は、計画外の出来事へと開かれ、他者の潜在的な可能性に耳を傾け、それを引き出すと論じる。さらにそこには自分自身も変化する可能性があるという。一方的でない利他とは「他者の発見」であると同時に「自分の変化」をともなうのである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)