The shoulders of Giants
組織
ロックが提示したところの、労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作りだした者のものであるという考え方。それは皮肉にも、資本主義的な所有論とそれを批判するコミュニズム的な所有論の双方で、それぞれ論拠をなしてきたものである。たとえば資本主義的な生産理論において、賃労働という労働形式の正当化がまさにこの〈労働所有論〉によってなされた。労働力は労働者一人ひとりのもの、つまり彼らに固有のものであるとするなら、それをだれか生産手段を所有する者に譲渡し、労賃と引き換えに貸与する権限もそれぞれの労働者その人にあるはずだからだ。が、もう一方で、たとえばマルクスの労働理論において、資本主義的な生産様式における労働がつねに「疎外された労働」という形態をとるのは、本来各人のものである労働が資本家に売り渡されるからだとされる。そこでは、労働による生産物、すなわち労働者自身の本質を外部へと対象化したものが(労働がもはや彼自身のものではないがゆえに)彼自身に所属しないという、いわゆる「疎外」(Entfremdung)という事態が発生するとされる。「疎外」とは、とりもなおさず、各人に固有(proper)のものとしての労働が、その固有性=所有権(property)を剝奪されているという事態にほかならないからである。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
昨今、多くの企業や個人が創造性やイノベーションの創出やその体系化に躍起になっている。だが、創造性やイノベーションの本質は、文化人類学者レヴィ・ストロースが言うところの「ブリコラージュ」(相互に異様で異質な物事が出会うことで新しい「構造」が生まれるという意味)にあり、創造性やイノベーションの非予定調和的な性質は体系化に馴染みづらいと私は考えている。
一方で、創造性やイノベーションが生まれやすい、確率を高くする環境や土壌を創出することは可能である。イノベーションの打率を上げることと言ってもよい。創造性やイノベーションの本質がブリコラージュにあるとすれば、これまで出会わなかったヒト、モノ、コトが偶発的に出会い、交配する機会を最大化することが創造性やイノベーションの源泉となる(法学者ジョナサン・ジットレインの言葉を借りれば、「生成力(generativity)」を高める、ということになる)。そのためには可能な限り多くの情報、事物など、有形・無形のあらゆるリソース(資源)を誰もが自由にアクセスし、利用できること、リソースの自由利用性=「コモンズ」を確保することが重要になる。コモンズは、他分野からの参入障壁を破壊し、価格や品質をコモディティ化することで、その分野の境界を融解し、創造性やイノベーションを促進するのである。
(水野祐、2017『法のデザイン—創造性とイノベーションは法によって加速する』フィルムアート社)
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
(新約聖書「コリントの信徒への手紙」12章 15〜19節)