The shoulders of Giants
疎外/排除
ロックが提示したところの、労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作りだした者のものであるという考え方。それは皮肉にも、資本主義的な所有論とそれを批判するコミュニズム的な所有論の双方で、それぞれ論拠をなしてきたものである。たとえば資本主義的な生産理論において、賃労働という労働形式の正当化がまさにこの〈労働所有論〉によってなされた。労働力は労働者一人ひとりのもの、つまり彼らに固有のものであるとするなら、それをだれか生産手段を所有する者に譲渡し、労賃と引き換えに貸与する権限もそれぞれの労働者その人にあるはずだからだ。が、もう一方で、たとえばマルクスの労働理論において、資本主義的な生産様式における労働がつねに「疎外された労働」という形態をとるのは、本来各人のものである労働が資本家に売り渡されるからだとされる。そこでは、労働による生産物、すなわち労働者自身の本質を外部へと対象化したものが(労働がもはや彼自身のものではないがゆえに)彼自身に所属しないという、いわゆる「疎外」(Entfremdung)という事態が発生するとされる。「疎外」とは、とりもなおさず、各人に固有(proper)のものとしての労働が、その固有性=所有権(property)を剝奪されているという事態にほかならないからである。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
ちなみに「可愛い」とは、きれいな自立できない弱者を受容する言葉である。少女たちが好感を抱く対象をやたらとこの言葉で形容するようになったのはここ数年だが、彼女たちは、この言葉をいわば呪文のように唱えることで、「可愛い」ものにはすべて同じ顔をもたせ、自分たちの幻想の共同世界の側にとり込みながら、「可愛くない」ものは「関係ないから」と、視界の外に排除していく。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
「高橋のバカがよ、昨日の伝票整理しねえで直帰しちゃったから」
サクマは苦笑した。サクマは自分の性質からいくつかの職を転々としていた。男ばかりの職場がほとんどだったが、そういう職場は陰湿なところが多かった。あのねちっこさは性別なんかではなくて、実際は働く人や組織の同質性の高さによってもたらされるものだった、と言葉ではなく皮膚で学んだ。いずれにしてもそういう空気が好きじゃなかった。積極的に関わっても、関わらなくても不利益になるが、最後の最後の部分まで自分を切り売りする気にはなれないでいて、そしてそういう性向が定期的に職を替えざるを得ない原因の一つでもあった。
「いい加減なやつですからね」とか「そういうやつですからね」とか一言いえばいいのに、言うべきことは分かっているのに、サクマは耐えてしまう。精一杯の阿りが苦笑ででしかできない。かといって全力でそういう自分を肯定しているのかといえばそういうわけでもなく、納得はしているが居心地の悪さとも肩を並べているのだった。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
だって、「生産性がない人なんていません」ってつまり、「どの個体も、意味や価値に始まる何かしらの生産性とは無関係ではいさせません」っていう宣言、でもありますよね?
だから、全然優しい言葉ではないんですよ。
それどころか、自分が今後どんな状態になっても、いつ何時でも、共同体にとって有用な個体でいなければならない感、すごくないですか?
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
マイノリティを差別しないのは、そういう時代だから。そうでない時代を構築した過去を本気で反省し謝罪し改善したいわけではなくて、なんかそういう時代になったから。この感じだと、何十年後、共同体や種が今よりもずっと縮小していて、かつ体内受精を始めとする有性生殖でしか次世代個体を発生させる方法がないままだったら、やっぱり同じようなノリで再び同性愛嫌悪の空気が再構築される可能性めちゃくちゃありますよ。だって、そういう時代だから。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
疎外は,社会学の言説から抜け出して,メデイアの解説や日常言語に入り込んでいる.たとえば,一つの世代全体が「社会から疎外」されている,とか,若者のサブカルチャーは,主流の文化から若い人びとが疎外されている状態を表している,などという言い方を耳にするであろう.この場合,隔たりや分離といった観念が含まれていることは明らかであるが,社会学において疎外といえば,資本主義社会の不平等と関連していることに注意したい.マルクスの史的唯物論のアプローチは,人びとが仕事を組織して財とサービスをつくり出す方法から始まる.マルクスにとって,「疎外されている」とは,真の帰結へと至る客観的条件のもとにおかれていることであり,その条件を変える鍵は,私たちの考えや信念を変えることではなく,自分の状態をコントロールする力を増し加えるために,生きる方法を変えることなのである.かつての労働生活とは,より骨の折れる肉体的労役であったように思われるが,小作農や職人など多くの社会集団にとっては,熟練を要する,それ自体満足できる仕事であり,現代の製造業や大規模なオフイス環境,コールセンターやファストフード店などよりも,仕事に対するコントロールの幅が大きかった.今日の仕事は,肉体的には以前ほど重労働ではないかもしれないが,コントロールの余地を与えられていないため,より大きな疎外を生み出し続けているのである.
(友枝敏雄・友枝久美子、2018『ギデンズ 社会学コンセプト事典』丸善出版)