The shoulders of Giants
生/死
元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か、と祐治は思う。十年前か。二十年前か。一人ひとりの「元」はそれぞれ時代も場所も違い、一番平穏だった感情を取り戻したいと願う。
道路ができる。橋ができる。建物が建つ。人が生活する。それらが一度ひっくり返されたら元通りになどなりようがなかった。やがてまた必ず足下が揺れて傾く時がくる。海が膨張して押し寄せてくる。この土地に組み込まれるようにしてある天災がたとえ起こらなかったとしても、時間は一方向にのみ流れ、一見停止しているように見える光景も絶え間なく興亡を繰り返し、めまぐるしく動き続けている。人が住み、出ていく。生まれ、死んでいく。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
祐治は晴海を思い、知加子の腹の中で成長をとめた子を思い、苦悩に悶えた。生きている間の辛苦は本人と共有できるが、死は別だ。死だけは本人ではなく、側にいる人間が引き受け、近いほど強烈に感じ続ける。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
祐治は人の一生を想像した。
生まれ落ちた時に水のいっぱい入った皿を持たされ、こぼさないように歩く。歩いている途中でいつの間にか水は蒸発したり、躓いた拍子にこぼれ落ちたり、また人に与えたりして減っていく。人によって皿が空になる時間はまちまちである。
水をたっぷり残しても、褒められるわけでも、何かもらえるわけでもない。弱いもの同士で寄り合い、危険を避け、見て見ぬ振りを決め込んで辛いことや嫌なことをやり過ごして一生を終えてどうする。儚い時間を歯を食いしばって耐えて何になるだろう。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
明夫は生きた。死ぬ理由はそれで十分じゃねえか。消える時を自分で決めて何が悪い。祐治は耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。死者は死者のままだった。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
「そのために、……死の予定を立てる、ということですか? 看取ってくれる人と、スケジュールを調整するために?」
「人生のあらゆる重大事は、そうでしょう? 死だけは例外扱いすべきでしょうか? 他者と死を分かち合うというのは、臨終に立ち会うだけじゃない。時間を掛けて、一緒に話し合う時間を持つ、ということです。」
(平野啓一郎、2021『本心』コルク)
時計に目を遣って、僕は、三十三分間という、この電車に乗っている時間のことを考えた。下車後の僕は、乗車前の僕より、既に三十三分、死に接近しているのだった。実際には、通勤のストレスは、乗車時間以上に寿命を縮めているだろうが。
それが、一日二回、数十年に亘って繰り返されるということ。……
僕は生きる。しかし、生が、決して後戻りの出来ない死への過程であるならば、それは、僕は死ぬ、という言明と、一体、どう違うのだろうか? 生きることが、ただ、時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして、「生きる」という言葉が必要なのだろうか?
(平野啓一郎、2021『本心』文藝春秋)
食事というものは、広義に「あまじょっぱい」ものだ。甘みのある穀類を、塩気(と甘み)のあるおかずと一緒に食べるのだから。あまじょっぱい、それは、生と死の、有機と無機の、エロスとタナトスの往還に他ならない。食事は、死に近づこうとする自己破壊の実験でもある。満腹になって眠くなる(あるいは、セックスをして眠くなる)。満腹になって仮死状態になる。食事は、生きて考える持続を中断することである。生きて考えることに疲れ、倒れ込むようにしてなされる食事は、実質的にエネルギーの回復であっても、形式的・儀式的には、死のシミュレーションでありうる。労働の後で、もういい、もうだめだと、食事へ倒れ込むのである。逆に、 食事を死のシミュレーションにしない=生の持続をそのまま延長するためには、食べすぎてはいけない、つまり、眠くならないように調整する(労働の前の少しの朝食、労働の途中に補給する糖)。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)