自分はいつか結婚するんだろう、と二谷は思っている。結婚がしたいわけではなくて、結婚したくないと思ったことがないからだった。世の中には一生結婚しないと決めている人もいるけれど、そういうのは確固たる意志がある人だけが決意するものであって、特に何の希望もない自分のような者は、いつか結婚しなければ辻褄が合わない。ならば、喜んでくれる人が多いうちにしてしまうのがいいんだろう、そんなふうに考えていた。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
The shoulders of Giants
自分はいつか結婚するんだろう、と二谷は思っている。結婚がしたいわけではなくて、結婚したくないと思ったことがないからだった。世の中には一生結婚しないと決めている人もいるけれど、そういうのは確固たる意志がある人だけが決意するものであって、特に何の希望もない自分のような者は、いつか結婚しなければ辻褄が合わない。ならば、喜んでくれる人が多いうちにしてしまうのがいいんだろう、そんなふうに考えていた。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
遠くに行きたかった。遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。両親も弟も繰り返しを繰り返していた。おれは多分それが嫌だった。遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。自転車便をやっていた頃の後輩がいつだったかに言っていた「ゴール」も多分そこのことだった。
「ほんの少しだけ違うことをさ、認めるだけでおんなじような毎日が、だから変わっていくんじゃないかなあ。ぼくもさ、ずっと変わらない毎日を変わっちゃいけない毎日だと思い込もうとしてたから苦しかった気がするんだよなあ」
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
何不自由ない子供時代を与えてくれて有り難かったとは思うけれど、母のような犠牲者にはなりたくない。色々なことから自由でいたい。たかが、住む場所や食べるもののことで、命や心を削るなんて本末転倒ではないか。本来幸せに暮らすために必要な作業で不幸せになるなんて、これほどの矛盾があるだろうか。
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
尚成の場合、学校の友達が蔑むことや気持ち悪がること、家族が地域や国家にとって悪とみなしていることに同意している時間は即ち、自分自身を蔑み気持ち悪がり、悪とみなす時間そのものでした。振り返ってみればあくまで共同体の庇護なしでは生き延びられない期間をやり過ごすための擬態だったわけですが、もちろん当時はそんなふうに割り切れておらず、この時間は永遠に続くのだと思っていました。擬態はこうして、尚成という個体を十八年間生き延びさせたあと、それと全く同じ方法で、尚成という個体の感覚を十八年分殺したのでした。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
「傷モノは絶対に泣き言を言っちゃいけないんだ」。それがMr.マドリードのルールだった。「それに現代のように、いち個人の行動とバックグラウンドとを安易に結びつける社会で、トラウマを開示することはつまり、人格をジャッジする権限を明け渡すようなものだよ。他人にペラペラ教えるべきじゃない」
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」
(村田沙耶香、2021『コンビニ人間』文藝春秋)
「そう。そういうのが強調されると、その人の持ってる他の色んな面が無視されちゃうでしょう? 人間は、本来は多面的なのに、在日って出自がスティグマ化されると、もう何でもかんでもそれですよ。悪い意味だけじゃなくて、正直僕は、在日の同胞に、俺たち在日だしなって肩を組まれるのも好きじゃないんです。それは、俺たち石川県人だもんな、でも同じですよ。〝加賀乞食〟なんて、自虐ネタをフラれても、そういうところがある気がしないでもないけど、何かにつけて言われるとね。……弁護士だろう、とか、日本人だろう、とか、何でもそうですよ。アイデンティティを一つの何かに括りつけられて、そこを他人に握り締められるってのは、堪らないですよ。」
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
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