The shoulders of Giants
理性/欲望
『むしろ逆かな』『うまく説明できるか』『分からないけど…』『自分にとって』『あたりまえの欲求が』『他人にとって』『暴力になるとしたら』どうする?、と促すように、おまえは眉毛をあげて彼女を見た。『欲求そのものを』『ガマンしようなんて』『自分を過信しすぎてる』『いつか自分本位に』『タガを外して』『誰かを傷付ける』『だから大切なのは』『欲望そのものが』『消滅するまで』『範囲を設定すること』『そう思う』。おまえは言葉を止めて、体を捻った。そして指を使って砂に漢字で、域、と一文字だけ書いた。『この漢字の意味は』『ゲームのフィールドとか』『フットサルのコートとか』『ボクシングのリングみたいな』『そういう意味なんだけど』『俺はこれを』『探してる』『ここは自分にとって』『そういう域だ』『不謹慎かもしれないけど』『君や彼らが』『延々とデートして』『喧嘩したり』『全力で競ってるのが』『すごく落ち着くんだ』。
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
人は一般に、愛の方が性欲よりも崇高で、純粋だと勘違いしています。しかし、私に言わせれば、これは言語道断の誤解であって、愛などというのは、偽りと打算に満ちた、遥かに不純な代物です。愛が脆いのは、その混ぜ物のせいです。
しかし性欲は純粋です。それはただ、ひたすらに合一化だけを夢見る欲望であって、決して愛だとか、況してや生活だとか(!)に堕落することはないのです。
(平野啓一郎、2014『透明な迷宮』新潮社)
ナショナリズムは近代国家を構成する欠かせない「イズム」だが、その内実はじつはあまりない。第六章でも名前を挙げた大澤真幸が指摘するように、ナショナリズムには、自由主義や社会主義や共産主義のような哲学的な基礎が欠けている。にもかかわらず、それはふしぎなことに世界中の人々を惹きつけ続けている。その事実は、ナショナリズムの力が、理性ではなく欲望に、国民の意識ではなく無意識に根ざしたものであることを意味している。ナショナリズムとはまずは情念の問題なのだとすれば、ナショナリズムに駆動された国民に対して、欲望の対象がいかに魅力を欠いているか(国家がいかに虚像で覆われているか)、欲望の実現がいかに「高くつく」 ものなのか(排外主義がいかに経済的に損になるか)、一所懸命説いたとしてもたいして効果は望めないのもまた当然のことだろう。実際に過去四半世紀、知識人たちは理知的なナショナリズム批判をあちこちで繰り返してきたが、政治的にはほとんど影響力をもつことができなかった。
(東浩紀、2011『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社)
あまり自覚されることはないが、20世紀とは「映像の世紀」であるのと同程度には「エンジンの世紀」でもあった。そして前世紀後半のオートバイと自動車の大衆化は、先進国に「交通戦争」とすら呼ばれる状況をもたらした。つい半世紀前まで、この国でも交通事故の死者は1万人を超えていた。しかし、今日においてそれはおよそ1/3以下に減っている。自動車の安全性能の向上、政府の法規制と啓蒙の強化がその主要因と言われているが、同時に人類がエンジンのもたらすスピードという幻想、それを手にしておよそ100年で醒めつつあることが指摘できる。片岡義男(『スローなブギにしてくれ』『彼のオートバイ、彼女の島』)からしげの秀一(『バリバリ伝説』『頭文字D』)まで、20世紀のポップカルチャーにおいて定位置を占めていたこれらの機械への欲望は大きく後退している。強く、大きく、そして「速い」機械による身体拡張の快楽に人類は酩酊し、それがつい数十年前までは工業社会下における男性性の成熟と重ね合わされていた。しかし、21世紀の今日に生活の必要とは無縁にこのような文化に親しむ人々は、次第にかつての香港のカンフー映画を愛好する人々のようにレトロな文化に親しむ趣味人と見なされつつある。
(宇野常寛、2023「いま必要なのは「新しい生活様式」の反省と再評価だという話」note)