たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
The shoulders of Giants
たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
ロックが提示したところの、労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作りだした者のものであるという考え方。それは皮肉にも、資本主義的な所有論とそれを批判するコミュニズム的な所有論の双方で、それぞれ論拠をなしてきたものである。たとえば資本主義的な生産理論において、賃労働という労働形式の正当化がまさにこの〈労働所有論〉によってなされた。労働力は労働者一人ひとりのもの、つまり彼らに固有のものであるとするなら、それをだれか生産手段を所有する者に譲渡し、労賃と引き換えに貸与する権限もそれぞれの労働者その人にあるはずだからだ。が、もう一方で、たとえばマルクスの労働理論において、資本主義的な生産様式における労働がつねに「疎外された労働」という形態をとるのは、本来各人のものである労働が資本家に売り渡されるからだとされる。そこでは、労働による生産物、すなわち労働者自身の本質を外部へと対象化したものが(労働がもはや彼自身のものではないがゆえに)彼自身に所属しないという、いわゆる「疎外」(Entfremdung)という事態が発生するとされる。「疎外」とは、とりもなおさず、各人に固有(proper)のものとしての労働が、その固有性=所有権(property)を剝奪されているという事態にほかならないからである。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
マイノリティを差別しないのは、そういう時代だから。そうでない時代を構築した過去を本気で反省し謝罪し改善したいわけではなくて、なんかそういう時代になったから。この感じだと、何十年後、共同体や種が今よりもずっと縮小していて、かつ体内受精を始めとする有性生殖でしか次世代個体を発生させる方法がないままだったら、やっぱり同じようなノリで再び同性愛嫌悪の空気が再構築される可能性めちゃくちゃありますよ。だって、そういう時代だから。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
小森はるかは震災後、すぐにボランティアで支援活動をするためにアーティストで友人の瀬尾夏美と東北に行ったが、彼女の記録映画を観ていくと、援助をしにいったはずの彼女たちが、いろいろな家に招かれ、食べ物をご馳走になったり、手土産にフルーツをもらったり、与える以上にたくさん受け取る姿が映し出されている。どちらが支援されているのか、わからなくなる。与える/受け取るという二項対立が曖昧化し、主客の転倒が起こる。
利他には必ず「他」としての受け手が存在する。だから利他を与え手の意志のもと百発百中で成功させることなどできない。それならば、利他行為を直接的に他者へと差し向けるのではなく、主体/客体、能動/受動が流動化していく、利他を生み出す可能性を高める環境を作ることに傾注する必要があるだろう。
「効果的利他主義」はこうした懐疑が前提としてほとんど共有されていない。利他は与え手が意志的に「起こす」ものではなく、受け手によって偶然「起きる」ものである。その可能性を高める環境は、ある程度意識して作り出せるのではないだろうか。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。
まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しないモノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス」(男根の象徴)の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものです。精神分析の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯として特権的な場所であり、性感帯ではない通常の場所はそれに対立している。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させる、と考えてみましょう。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
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