The shoulders of Giants
未来
むしろ未来は、さしあたりは「ここではないどこか」としてあったのであって、必ずしも現在に対して超越的なある一点に収斂される必然性はなかったのだ。そして実際、明治末から大正にかけての「浅草」や六〇年代の「新宿」に集った人びとが未来に求めたのは、そこに群れること自体のなかからおのれの存在の根拠となるような共同性を創造していくことであった。つまり、所与としての未来と可能性としての未来、そのような二つの〈未来〉のあり方が区別されなければならないのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
ここで感じる不快感と安心感は両立している。この先どうなるかということ──つまりは刑期が満了したら外に出られるということ──がここでは担保されており、その保証が安心と不快を伴っていたのだ。今まで気が付かなかったのが不思議なくらいだ。十年先、二十年先、自分が死ぬその瞬間までが全て決められていたら不愉快に決まっている。安心だが不愉快だ。こういうのが許されるのは刑務所だからだ。刑務所は制度だ。制度だけが未来を確たるものとして示すことができる。自分は遠くに行きたいと願いながら、一方で制度を希求していた。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
マイノリティを差別しないのは、そういう時代だから。そうでない時代を構築した過去を本気で反省し謝罪し改善したいわけではなくて、なんかそういう時代になったから。この感じだと、何十年後、共同体や種が今よりもずっと縮小していて、かつ体内受精を始めとする有性生殖でしか次世代個体を発生させる方法がないままだったら、やっぱり同じようなノリで再び同性愛嫌悪の空気が再構築される可能性めちゃくちゃありますよ。だって、そういう時代だから。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
そもそも、人間にはなぜ自由が必要なのでしょうか。ミルの考えでは、それは人間の可謬性と高い修正能力ゆえです。つまり、人間はえてして判断を誤るが、それを自由な討論によって修正する能力にも富んでいるというのです。それゆえ、ミルは自由の確保を「自分自身の可謬性に対して予防策をとる」ことと見なします。これは一種の「リスクヘッジ」と言い換えてもよいでしょう。[…]
人間は誰でも失敗する。この誤謬の可能性を織り込んで、人間の考えを最大限に多様にし、オープンな討論を経て意見を修正してゆくことが、ミル的な自由主義の基本的な考え方です。
(福嶋亮大、2022『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』星海社)