痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものであとは耐えられる。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
The shoulders of Giants
痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものであとは耐えられる。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
「 […] でもね、言葉はどこまでいっても不便な道具です。使い慣れる、ということがない。僕は未だに和子と喧嘩するよ。たまに会う若い学生さんの言葉を遮りもする。誰かの言っているとが全然分からなくて、耳が悪いふりで誤魔化したり……その代わりになるものがなかなか見つからないから、ずっと使っているだけのことでさ。僕はねぇ、こう考えたことだってあるんだよ? 例えばセックスはどうだろうって?」
學がこんな露骨な単語を口にすることに統一は眉を顰めると同時に、思わず姿勢を正してしまう。
「うん、これは言葉より確かだ。近く感じる。何より温かい。でも続かない。やはり、僕は言葉の方が性に合う。何かと刹那的な感覚に辟易している世代だから、不変的な、それでいて普遍的なものが欲しいんですね。そして、結局、僕には祈りしかなかったんだよ。つまり、今自分が語っている限界のある言葉を、聖霊が翻訳して、神に届けてくれる。それによって、何はともあれ、すべてやがてよしとなる、と信じること。もしかしたら、あらゆる言葉は何らかの形で祈りになろうとしている、ともいえるかもしれない、とこう思うんだね……や、悪いなぁ、君にはいつもこうやってお説教をしてしまって。 […] 」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
音楽を人に届ける段階に入って必要なのはやっぱりコミュニケーションで、独りっきりで思い込みの強い状態でやるよりも複数人とやったほうがより多くの人に届くだろう、というのはいつも思うことである。いわばアレンジャーやレコード会社の人、MV監督というのは最初にアーティストが思いついたアイデアを世間に伝えるコミュニケーションのプロなのである。ただこうしてフィルターが多数入っていくと、ただでさえぼんやりした音楽というものの輪郭がさらにぼやけてしまい、自分の作ったもの、という感覚から離れてしまうような錯覚に陥る。自分に関して言えば一定の割合以下の作業しかしていないものに関しては急激に記憶の中から薄れてしまうという現象がある。自分が決めている範囲というのは個性を決定する上でとても大事な要件だと思う。
(tofubeats、2022『トーフビーツの難聴日記』ぴあ)
まさぐるようにクリックして窃視する、これこそ当時のマルチメディアの、ハイパーリンクの経験である。クリック=愛撫=窃視。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
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