グラフィック・デザインの目的は、イヴェントにせよ商品にせよ、何かが存在していることの告知である。知らされなければ、それは、そもそも存在していないかのように黙殺されてしまう。ポスターは、「ここにこれがある!」ということを、美の力を借りて訴えるのであり、結果、その表現は芸術の域にまで高められることもある。
しかし、芸術とはその実、資本主義とも大衆消費社会とも無関係に、そもそも広告的なのではあるまいか?──例えば、燃えさかるようなひまわりの花瓶がある。草原を馬が走っている。寂しい生活がある。戦争の悲惨さがある。自ら憎悪を抱えている。誰かを愛している。誰からも愛されない。……すべての芸術表現は、つまるところ、それらの広告なのではないか?
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)