The shoulders of Giants
孤独
飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。
(井戸川射子、2024『この世の喜びよ』講談社)
祐治は人の一生を想像した。
生まれ落ちた時に水のいっぱい入った皿を持たされ、こぼさないように歩く。歩いている途中でいつの間にか水は蒸発したり、躓いた拍子にこぼれ落ちたり、また人に与えたりして減っていく。人によって皿が空になる時間はまちまちである。
水をたっぷり残しても、褒められるわけでも、何かもらえるわけでもない。弱いもの同士で寄り合い、危険を避け、見て見ぬ振りを決め込んで辛いことや嫌なことをやり過ごして一生を終えてどうする。儚い時間を歯を食いしばって耐えて何になるだろう。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
「あなたに何が分かるのよ。進学だって就職だって何一つ上手くいかなかったくせに。友達なんか一人もいないくせに。そうやって、何もしないことで、怠惰に暮らすことで、私を責めているんでしょ? いい加減、立ち直りなさいよ。ちゃんと生きなさいよ。あなたが惨めったらしい姿で家の周りをうろちょろするから、私はいつまで経っても高校時代から先に進めないんじゃないの!」
「加害者が被害者に言う台詞じゃないなあ、それ」
とくに傷ついた様子もなく、圭子はふふふ、と笑ってみせた。
「進学も就職も、なんでも努力して上手くやってきたあんたにも、友達がいないのは不思議だね」
栄利子がエレベーターに乗ろうと歩き出そうとしたその時、圭子は優しい口調でこう言った。
「つまりさ、頑張ってもどうにか出来るもんじゃないんだよ。友達だけはさ」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
「可哀想だけど、あんたがどんなにあがいても、もうあの夜は取り戻せないんだよ。おひょうさんはもうあんたと違う場所に立って、違うものを見ている」
栄利子は手すりからずるずると体をすべらせ、そのまま床にうずくまった。それでも、圭子はしゃべるのをやめようとしない。
「思い出は思い出として大切にとっておけばいいじゃない。たとえ幻だったとしても、楽しい時間を一瞬でも過ごせたんだから、それでいいじゃない。私には確認しようもないけど、もし、本当にその瞬間、あんたたちの心が通い合っていたとしたら、その夜は宝石みたいなもんなんじゃない? 取り戻せないからこそ、大切な時間だよ。それなのに、あんたはその奇跡に感謝しようともしない。あってしかるべき状態と決めつけている。相手にあれと同じものをもっとくれ、としつこく要求するのはやめなさいよ」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。 […] 」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
疎外は,社会学の言説から抜け出して,メデイアの解説や日常言語に入り込んでいる.たとえば,一つの世代全体が「社会から疎外」されている,とか,若者のサブカルチャーは,主流の文化から若い人びとが疎外されている状態を表している,などという言い方を耳にするであろう.この場合,隔たりや分離といった観念が含まれていることは明らかであるが,社会学において疎外といえば,資本主義社会の不平等と関連していることに注意したい.マルクスの史的唯物論のアプローチは,人びとが仕事を組織して財とサービスをつくり出す方法から始まる.マルクスにとって,「疎外されている」とは,真の帰結へと至る客観的条件のもとにおかれていることであり,その条件を変える鍵は,私たちの考えや信念を変えることではなく,自分の状態をコントロールする力を増し加えるために,生きる方法を変えることなのである.かつての労働生活とは,より骨の折れる肉体的労役であったように思われるが,小作農や職人など多くの社会集団にとっては,熟練を要する,それ自体満足できる仕事であり,現代の製造業や大規模なオフイス環境,コールセンターやファストフード店などよりも,仕事に対するコントロールの幅が大きかった.今日の仕事は,肉体的には以前ほど重労働ではないかもしれないが,コントロールの余地を与えられていないため,より大きな疎外を生み出し続けているのである.
(友枝敏雄・友枝久美子、2018『ギデンズ 社会学コンセプト事典』丸善出版)
孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。──同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが、他者の存在のどこを探ってみても、見出せないということ。
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)
「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」
(村田沙耶香、2021『コンビニ人間』文藝春秋)
僕の生活には、そもそも、もうそれほど、後退れる余裕がないのだった。背後にすぐに、たった独りになってしまう、という孤独が控えている時、人は、足場が狭くなる不自由よりも、とにかく何であれ、摑まる支えが得られたことの方を喜ぶものだろう。
(平野啓一郎、2021『本心』文藝春秋)