The shoulders of Giants
労働/仕事
ロックが提示したところの、労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作りだした者のものであるという考え方。それは皮肉にも、資本主義的な所有論とそれを批判するコミュニズム的な所有論の双方で、それぞれ論拠をなしてきたものである。たとえば資本主義的な生産理論において、賃労働という労働形式の正当化がまさにこの〈労働所有論〉によってなされた。労働力は労働者一人ひとりのもの、つまり彼らに固有のものであるとするなら、それをだれか生産手段を所有する者に譲渡し、労賃と引き換えに貸与する権限もそれぞれの労働者その人にあるはずだからだ。が、もう一方で、たとえばマルクスの労働理論において、資本主義的な生産様式における労働がつねに「疎外された労働」という形態をとるのは、本来各人のものである労働が資本家に売り渡されるからだとされる。そこでは、労働による生産物、すなわち労働者自身の本質を外部へと対象化したものが(労働がもはや彼自身のものではないがゆえに)彼自身に所属しないという、いわゆる「疎外」(Entfremdung)という事態が発生するとされる。「疎外」とは、とりもなおさず、各人に固有(proper)のものとしての労働が、その固有性=所有権(property)を剝奪されているという事態にほかならないからである。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
ちゃんとしたごはんを食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの惣菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、ほんとうに自分を大切にするってことか。野菜を切って肉と一緒にだし汁で煮るだけでいいと言われても、おれはそんなものは食べたくないし、それだけじゃ満たされないし、そうすると米や麺も必要で、鍋と、丼と、茶碗と、コップと、箸と、包丁とまな板を、最低でも洗わなきゃいけなくなる。作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、 それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
だって、「生産性がない人なんていません」ってつまり、「どの個体も、意味や価値に始まる何かしらの生産性とは無関係ではいさせません」っていう宣言、でもありますよね?
だから、全然優しい言葉ではないんですよ。
それどころか、自分が今後どんな状態になっても、いつ何時でも、共同体にとって有用な個体でいなければならない感、すごくないですか?
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
「お金を稼ぐためにしかたなくすること」
「プライベートと反対の緊張する時間」
「どんどん規模を大きく発展させなければいけない」
こういう仕事観は、果たして自明なのだろうか。お金も休みも発展も必要だが、でもそれ自体は目的ではない。大事なのは、人が仕事を通して「何に気づくのか」だろう。お金や規模などの「結果」ではなく、働くことで自分の世界を豊かにしていく「プロセス」なのではないか。自分がどんな世界に生き、どんな存在と関わっているのか気づき、その気づきの解像度を上げていく。プロセスにこそ仕事の本質的な価値がある。
(小倉ヒラク、2017『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎)
アレントによれば〈労働〉とは、人間の肉体によって消費されるものに関わる営みである。たとえば食料や衣料品の生産などがそれに当たる。それはかつて奴隷によって担われていた。だから〈労働〉は忌み嫌うべき行為であった(この点はヴェブレンの『有閑階級の理論』を思い出せば簡単に理解できるだろう)。
それに対し、〈仕事〉は世界に存在し続けていくものの創造であり、たとえば芸術がその典型である。〈労働〉の対象は消費されるが、〈仕事〉の対象は存続する。ゆえに〈仕事〉は〈労働〉に比べて高い地位を与えられてきた。肯定的に捉えられてきたのである。
このように両者を区別した後で、アレントは次のように言う。なぜ労働が否定されたり、肯定されたりするのか? それは哲学者たちが〈労働〉と〈仕事〉を混同していたからである。同じ行為の〈労働〉的側面がピックアップされれば否定的に論じられるし、〈仕事〉的側面が注目されれば好意的に受け止められるというわけである。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)