たとえば誰かを介護しなければならないとして、そのときその人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまいます。あるいは、介護される側からしても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監視されていると感じるようになってしまいます。たとえ人間関係においてつながりが必要だとしても、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々は互いの自律性を維持できないのです。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能にしているのです。
(千葉雅也、2022『現代思想入門』講談社)
The shoulders of Giants
たとえば誰かを介護しなければならないとして、そのときその人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまいます。あるいは、介護される側からしても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監視されていると感じるようになってしまいます。たとえ人間関係においてつながりが必要だとしても、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々は互いの自律性を維持できないのです。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能にしているのです。
(千葉雅也、2022『現代思想入門』講談社)
僕は、母の心を、飽くまで母のものとして理解したかった。──つまり、最愛の他者の心として。
すっかりわかったなどと言うのは、死んでもう、声を発することが出来なくなってしまった母の口を、二度、塞ぐのと同じだった。僕は、母が今も生きているのと同様に、いつでもその反論を待ちながら、問い続けるより他はないのだった。わからないからこそ、わかろうとし続けるのであり、その限りに於いて、母は僕の中に存在し続けるだろう。
(平野啓一郎、2021『本心』文藝春秋)
飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。
(井戸川射子、2024『この世の喜びよ』講談社)
「可哀想だけど、あんたがどんなにあがいても、もうあの夜は取り戻せないんだよ。おひょうさんはもうあんたと違う場所に立って、違うものを見ている」
栄利子は手すりからずるずると体をすべらせ、そのまま床にうずくまった。それでも、圭子はしゃべるのをやめようとしない。
「思い出は思い出として大切にとっておけばいいじゃない。たとえ幻だったとしても、楽しい時間を一瞬でも過ごせたんだから、それでいいじゃない。私には確認しようもないけど、もし、本当にその瞬間、あんたたちの心が通い合っていたとしたら、その夜は宝石みたいなもんなんじゃない? 取り戻せないからこそ、大切な時間だよ。それなのに、あんたはその奇跡に感謝しようともしない。あってしかるべき状態と決めつけている。相手にあれと同じものをもっとくれ、としつこく要求するのはやめなさいよ」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(Jhn Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
中島岳志は、「合理的利他主義」が、自ら「利他」だと思った行為が、そのまま利他として受け取られることが前提となっていることの危うさについて触れ、与え手が意思をもって利他的行為をしても、それが利他であるかはわからないという。
自分の行為の結果は所有できるものではない。あくまでも与え手の意思を超えて、 受け手がその行為を「利他的なもの」として受け取ったときに、初めて相手を利他の主体に押しあげることができるのである。
伊藤亜紗は、「私の思い」による利他的な行為が他者をコントロールし、支配することに警鐘を鳴らす。これをすれば相手は喜ぶはずだという利他の心は、善意の押しつけにもなりうるし、容易に他者の支配へと転じるという。
[…] だからこそコントロールを手放す。不確実性を受け入れる。伊藤は「うつわ的利他」という言葉で、相手が入り込める「余白」をもつことの重要性を説いている。 […]
伊藤はまた、他者への「ケアとしての利他」に意外性を見出す。行為者の計画通りに進む利他は押しつけになりがちだが、ケアとしての利他は、計画外の出来事へと開かれ、他者の潜在的な可能性に耳を傾け、それを引き出すと論じる。さらにそこには自分自身も変化する可能性があるという。一方的でない利他とは「他者の発見」であると同時に「自分の変化」をともなうのである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
というのもハーマンの根底には、オブジェクト一個一個が「無限のポテンシャル」を内包するという考えがあるからです。たとえば、ここにあるペットボトルは、私との関係においては「水飲み可能性」や「摑み可能性」など、様々なアフォーダンスを惹起するものとして存在しているわけです。ところがこのペットボトルは、私との関係を超えて、はるかに多くのプロパティを有している。薬物をかけたり、燃やしたりしたときに生じる反応など、私というオブジェクトとの関係においては解き放たれないようなポテンシャルが内在している。この剰余をハーマンは「無限の」と形容する。オブジェクトの内奥は「ブラックホール」だといった言い方をしたりもしています。
しかし、オブジェクトの内奥にあるポテンシャルの無限性が数学的にどういう意味なのはよくわかりません。ハーマンはそこを説明していないと思います。この無限性という点では、レヴィナスを想起させるものがあると私は思います。実際、ハーマンはレヴィナスから影響を受けています。つまり、他者は無限の遠さにあり、私たちがどんなに理解しようとしてもその理解を越えてしまうような、他者の他者性があるという議論です。レヴィナスの場合では、無限に遠い「人間」こそを特別に尊重しなければいけないという立場です。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
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