The shoulders of Giants
リアリティ
このように検討を進めてくると、七〇年代以降の〈新宿的なるもの〉の衰退が、われわれの身体感覚の変化とどう連動していたのかも明らかになってくる。六〇年代、「新宿」に集った人びとが醸成させていたのは、かつての「浅草」と同様、〈触れる=群れる〉という身体感覚であったと考えられるが、このような〈触れる=群れる〉ことは、関係性の回路の限定を不可能にし、われわれが前に「共同性の交感」と呼んだ変幻自在で自己増殖的なリアリティを構成してしまう。ところが、こうしたリアリティのあり方は、散乱する〈未来〉にとっては雑音として以上の意味をもち得ないのだ。
つまり、右にみたような〈演じる〉という身体感覚にとっては、種々雑多な身体が触れあい、群れていることは、ただたんに「ダサい(ナウくない)」のであり、「可愛くない」のである。したがって、七〇年代以降の都市空間で突出してくる〈演じる〉ことは、こうした〈未来〉への係留にとって雑音にしかならない諸存在を視界の外に排除していこうとする傾向を強くもつことになる。そこでは、他者たちとの直接的な関係はどちらかというとアリバイ的なのであって、むしろ人びとは、都市空間の提供する舞台装置や台本に従って、すでにその意味を予定された役柄を場面ごとに〈演じて〉いくことで、逆に他者たちとのコミュニケーションのコードを共有しているのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
そして繰り返すが、「仮想現実から拡張現実へ」というキャッチフレーズは情報産業のトレンドの変化を表現するもの以上の意味を帯びている。それは僕たちの虚構観そのものの変化でもあるのだ。20世紀的な劇映画は、ディズニーのプリンセスストーリーたちや『スター・ウォーズ』、そしてMCUが代表するように半ばグローバルなコミュニケーションツールとなり、そして『ポケモンGO』が代表する21世紀的なアプリゲームは通勤や買い物といった生活そのものを娯楽化する。「ここではない、どこか」に、外部に越境することではなく「ここ」に、内部に深く潜るための回路を、いま、僕たちは情報技術に、そして虚構そのものに求めつつあるのだ。
(宇野常寛、2020『遅いインターネット』幻冬舎)
「水崎氏のこだわりは細かすぎて伝わらないヤツじゃないですか。」
「動きの鑑賞自体は別に珍しくもないんじゃない? 金魚の尻尾がヒラヒラしてるのって綺麗じゃん? 桜吹雪とかもさ。風で舞う様子が素敵なんだし、ダンスも動きのパフォーマンスじゃん。」
「アニメも動きの鑑賞すか。」
「その中でもアニメは 一番濃厚なんだよ。」
「絵に描いたものは作者が意識して描いたものだからね。」
「そう! アニメーションでデフォルメされた動きとかは、地味な仕草でも、「動きの細部に注目して描いてる」って点で強いインパクトを持ってんだよね。そこが実写とは、違うとこ。」
(大童澄瞳、2017『映像研には手を出すな!』小学館)
私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。
だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)