The shoulders of Giants
マイノリティ/マジョリティ
ちゃんとしたごはんを食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの惣菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、ほんとうに自分を大切にするってことか。野菜を切って肉と一緒にだし汁で煮るだけでいいと言われても、おれはそんなものは食べたくないし、それだけじゃ満たされないし、そうすると米や麺も必要で、鍋と、丼と、茶碗と、コップと、箸と、包丁とまな板を、最低でも洗わなきゃいけなくなる。作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、 それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
マイノリティを差別しないのは、そういう時代だから。そうでない時代を構築した過去を本気で反省し謝罪し改善したいわけではなくて、なんかそういう時代になったから。この感じだと、何十年後、共同体や種が今よりもずっと縮小していて、かつ体内受精を始めとする有性生殖でしか次世代個体を発生させる方法がないままだったら、やっぱり同じようなノリで再び同性愛嫌悪の空気が再構築される可能性めちゃくちゃありますよ。だって、そういう時代だから。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。
(國分功一郎、2011『暇と退屈の倫理学』朝日出版社)
厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負担をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ーーー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。[…]
こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、[…] 紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。
(市川沙央、2023『ハンチバック』文藝春秋)
「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」
(村田沙耶香、2021『コンビニ人間』文藝春秋)
「異性の性器に性的な関心があるのは、どうして自然なことなんですか」
寺井検事、と、越川の声が聞こえる。
「ひとりの異性に何十年も性的に興奮し続けることは、誰かにこうして取り調べられることがないくらい自然なことなんですか」
(朝井リョウ、2021『正欲』新潮社)
みんな本当は、気づいているのではないだろうか。
自分はまともである、正解であると思える唯一の拠り所が“多数派である”ということの矛盾に。
三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。
(朝井リョウ、2021『正欲』新潮社)