たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
The shoulders of Giants
たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
グラフィック・デザインの目的は、イヴェントにせよ商品にせよ、何かが存在していることの告知である。知らされなければ、それは、そもそも存在していないかのように黙殺されてしまう。ポスターは、「ここにこれがある!」ということを、美の力を借りて訴えるのであり、結果、その表現は芸術の域にまで高められることもある。
しかし、芸術とはその実、資本主義とも大衆消費社会とも無関係に、そもそも広告的なのではあるまいか?──例えば、燃えさかるようなひまわりの花瓶がある。草原を馬が走っている。寂しい生活がある。戦争の悲惨さがある。自ら憎悪を抱えている。誰かを愛している。誰からも愛されない。……すべての芸術表現は、つまるところ、それらの広告なのではないか?
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
社会学にとどまらず、人類学や経営学、政治学、アートなど幅広い分野で応用されている「アクターネットワーク理論」(以下、ANT)というものがある。フランスの社会学者であるブリュノ・ラトゥールが代表的な提唱者だ。
ANTは人びとの集まりが「社会」を構成するのではなく、非人間(生物、無生物、 人工物、技術などあらゆる要素)を含む異種多様なアクターの連関が「社会的なもの」を組み立てていると考える。
ラトゥールは社会を基本的に複数の人間の集まりと捉える「社会的なものの社会学」を批判し、非人間を二次的なものと位置づけることのない「連関の社会学」を打ち立てた。
要するに、行為する主体としての人間だけではなく、人間以外のさまざまな要素が果たすネットワークをたどり、その結果として社会を見る必要を訴えたのである。人間/非人間にかかわらず、アクターは他のアクターとの連関を通じてエージェンシー(行為や作用を生み出す力行為主体性)を発揮する。ANTはこのように近代の人間中心主義からの脱却を前提にして「社会」を捉える理論だといえるだろう。
たとえば、ANTからすれば、子供が遊具を主体的に用いて遊んでいるとは捉えない。子供の遊びを構成するのは、人間の行為だけではなく、遊びの空間を構成するあらゆる要素遊具、大地、自然、天気、技術、素材などのアクターである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
アフォーダンスとは、動物が事物に関わることによって、一定の反応が返ってくる環境の傾向性のことである。簡単な例をあげれば、穴はそこに入ることや中を覗くことを動物に提供(アフォード)する。あるいは石はつかむことや投げることをアフォードする。
ギブソンによれば、ガラスの壁は見ることをアフォードするが、通り抜けることはアフォードしない。モノに限らず、他者の身体もまた、それを知覚する動物に応答的行為をアフォードする。
つまり、環境を感じつつ自ら動くものである動物が、その行為によって周囲の媒質(medium)との関係が変わり、新たな情報が伝わって、またさらなる行為へと導かれてゆく絶え間ない知覚と行為の循環、すなわち取り巻く環境と出合う場面で知覚されるものがアフォーダンスなのである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。
まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しないモノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス」(男根の象徴)の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものです。精神分析の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯として特権的な場所であり、性感帯ではない通常の場所はそれに対立している。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させる、と考えてみましょう。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
というのもハーマンの根底には、オブジェクト一個一個が「無限のポテンシャル」を内包するという考えがあるからです。たとえば、ここにあるペットボトルは、私との関係においては「水飲み可能性」や「摑み可能性」など、様々なアフォーダンスを惹起するものとして存在しているわけです。ところがこのペットボトルは、私との関係を超えて、はるかに多くのプロパティを有している。薬物をかけたり、燃やしたりしたときに生じる反応など、私というオブジェクトとの関係においては解き放たれないようなポテンシャルが内在している。この剰余をハーマンは「無限の」と形容する。オブジェクトの内奥は「ブラックホール」だといった言い方をしたりもしています。
しかし、オブジェクトの内奥にあるポテンシャルの無限性が数学的にどういう意味なのはよくわかりません。ハーマンはそこを説明していないと思います。この無限性という点では、レヴィナスを想起させるものがあると私は思います。実際、ハーマンはレヴィナスから影響を受けています。つまり、他者は無限の遠さにあり、私たちがどんなに理解しようとしてもその理解を越えてしまうような、他者の他者性があるという議論です。レヴィナスの場合では、無限に遠い「人間」こそを特別に尊重しなければいけないという立場です。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
すると、ひなたぼっこするトカゲについて考えることは案外困難である。トカゲの身になってトカゲを眺める必要があるからだ。私たち人間はそこにトカゲ/岩/太陽の三つの独特の関係を見ているが、それはトカゲ自身にとってはいかなるものなのだろうか? トカゲ自身は太陽の光や岩をどう経験しているのだろうか?
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
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