The shoulders of Giants
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『相棒』シリーズを〝国民的ドラマ〟と呼ぶことに抵抗を感じる人は、まずいないだろう。そして、国民的ドラマである、ということは、こういうことなのだ。それは、ただ単に多くの人から支持されている、ということではなくて、こんなふうに愛情を持って語ることの幸せを、一人一人がそれぞれの形で持っている、ということに他ならない。家族だったり、友人だったり、同僚だったり。優れたドラマはそれだけで人の距離を近づけ、私たちの共通言語になる。[…]
誰かと語り合い、それを楽しみにすることで毎日を頑張れたりするものが、自分にあることは尊い。国民的ドラマを愛することの幸せが、そこにはある。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
春のアカデミー賞で候補になった『バービー』『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』『アメリカン・フィクション』『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』といった映画はどれも、二十世紀に白人が残した負の遺産をセルフ懺悔するコンセプトを持っていた。バービー人形という白人ルッキズムと資本主義の合成物。原爆。男女差別。黒人と白人の格差。ネイティブアメリカン虐殺。もう誰の責任か追及できないぐらい昔の、すでに起きてしまった過ちを、白人俳優たちが「私たちは自分の愚かさをちゃんと分かってます」って顔で演じてみせる映画を、ハリウッドは強迫観念のような勢いで量産した。それが単発の作品に止まらなかったのは、ひとつ大きなメリットを獲得したから。それは「白人たちの懺悔ショーであれば今まで通り白人ばかりが中心にいても問題視されない」という暗黙の了解だった。それは、作る側にも観る側にもずっと溜まっていた「白人だけのロマンスを蘇らせたい」という欲望を叶える光だった。作品賞を受賞した『関心領域』もまた、ナチスのホロコーストをスタイリッシュにまとめた、白人懺悔の文脈を引く作品といえた。ナチスの政権下、すぐ近くで起きているホロコーストの気配を無視して優雅に暮らす人々。「これこそが今パレスチナで進行中の虐殺に対する、我々の無関心さを表現しているのだ」というメッセージを、私たち観客はこの映画を観るまでもなく把握した。多くの観客が望んだのは「関心領域」の外に目を向けることでも「関心領域」の内で無慈悲に暮らすことでもなく、そうした図式そのものをシンプルに把握することだった。もう誰も本編を観ない。しんどくてめんどうな時間を一方通行に、まともな速度で過ごしたい人なんて私たち観客のなかにはほとんど残っていない。コンセプトだけでいいのだ。細かい議論は切り捨てられた。
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
結局のところコンテンツの相場というものは、人間が社会的にそのコンテンツにどれだけ依存しているかによってバランスが決まるというのがぼくの考えです。コンテンツというのは生きるための必需品ではありませんから、依存度で決まるというのはピンと来ないかもしれませんが、コンテンツを消費したりお金を払う人というのは、なにかしらそうせざるをえない自分の中での必然性があるのです。個人の生活リズムの中だったり、周囲の人たちとの社会的な付き合いのためだったり、潜在的なストレスや欲求の解消のためだったり、なんらかの必然性でもってコンテンツに依存するようになるのです。コンテンツを無料でもいいから配布することでプロモーションをするという戦略は、まずコンテンツへの依存をつくるという意味では正しいのです。コンテンツを利用していない段階では、まだそのコンテンツのある生活に依存していないのですから、無料という価格が適切になりえます。そしてコンテンツにある程度、依存し始めた状態で課金をすれば、今度はお金を払ってくれる確率が高くなります。言い方は悪いですが、コンテンツビジネスというのは、人間をある種の中毒みたいな状態にすることでお金を払ってもらえるようにするという構造があるのです。もちろん中毒とはいってもその作用は人間を幸せにしたり辛いことを忘れさせたり夢中にさせたり楽しい気分にしたりといった罪のないものではあるのですが。
(川上量生、2015『鈴木さんにも分かるネットの未来』岩波書店)
ルネッサンスとは何だったのか? たとえば、聖母マリアを例に取ると分かりやすい。マリアを描き、彫刻に彫るときの大きなテーマはキリスト教の祈り。ルネッサンスの始まりは、そのマリアを荒々しいリアリズムで表現したことにあったそうです。
それが、時代が進むと、マリアにはその古典となるべき完成形が誕生し、さらに時代が進むと、今度は細部にこだわるようになり、最後はぎらぎら飾り立てるものになったといいます。細部にこだわったときには、本来のテーマであった「祈り」はどこかへ行ってしまい、残ったのは、たんなる女体だったそうです。
以上をまとめると、アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロックという流れになり、美術の歴史はこの四つのサイクルの移り変わりになるというのが高畑さんの説です。
(川上量生、2015『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』NHK出版)
私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。
だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)