The shoulders of Giants
アイデンティティ
このように検討を進めてくると、七〇年代以降の〈新宿的なるもの〉の衰退が、われわれの身体感覚の変化とどう連動していたのかも明らかになってくる。六〇年代、「新宿」に集った人びとが醸成させていたのは、かつての「浅草」と同様、〈触れる=群れる〉という身体感覚であったと考えられるが、このような〈触れる=群れる〉ことは、関係性の回路の限定を不可能にし、われわれが前に「共同性の交感」と呼んだ変幻自在で自己増殖的なリアリティを構成してしまう。ところが、こうしたリアリティのあり方は、散乱する〈未来〉にとっては雑音として以上の意味をもち得ないのだ。
つまり、右にみたような〈演じる〉という身体感覚にとっては、種々雑多な身体が触れあい、群れていることは、ただたんに「ダサい(ナウくない)」のであり、「可愛くない」のである。したがって、七〇年代以降の都市空間で突出してくる〈演じる〉ことは、こうした〈未来〉への係留にとって雑音にしかならない諸存在を視界の外に排除していこうとする傾向を強くもつことになる。そこでは、他者たちとの直接的な関係はどちらかというとアリバイ的なのであって、むしろ人びとは、都市空間の提供する舞台装置や台本に従って、すでにその意味を予定された役柄を場面ごとに〈演じて〉いくことで、逆に他者たちとのコミュニケーションのコードを共有しているのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
「でも? やっぱり自分の脚は嫌いなの?」
「はい」
「そうか」
E藤先生は笑った。
「これは医者としてじゃなく、一人の人間として言うんだけど、怒らないでね」
「怒りませんよ」
「私は、あなたが人よりうんと頑張れる人になれたのは、その脚のお陰なんじゃないかと思うわ」
E藤先生はひらりと立ち上がった。私の脚からしっとりした手の感触が消えた。私はジーパンを上げるのも忘れ、長いあいだ壁を見ていた。
ねえ、あなたの脚が、ずっとずっと、あなたを守ってきてくれたんだとは思わない?
(石田夏穂、2023『ケチる貴方』講談社)
尚成の場合、学校の友達が蔑むことや気持ち悪がること、家族が地域や国家にとって悪とみなしていることに同意している時間は即ち、自分自身を蔑み気持ち悪がり、悪とみなす時間そのものでした。振り返ってみればあくまで共同体の庇護なしでは生き延びられない期間をやり過ごすための擬態だったわけですが、もちろん当時はそんなふうに割り切れておらず、この時間は永遠に続くのだと思っていました。擬態はこうして、尚成という個体を十八年間生き延びさせたあと、それと全く同じ方法で、尚成という個体の感覚を十八年分殺したのでした。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
なぜ人間がコミュニケーション=交換を行うかを問うても意味はない。コミュニケーションをし続ける存在が、つまり人間なのだ。
ここで「私という中心がある」ことを前提とする西洋的な近代哲学が解体されることになる。「私」が自由意志によって誰かとコミュニケーションしようとする、という前提は、「コミュニケーションの環を途切れさせないために、私がいる」というふうに、まるっと転倒させられる。人間がコミュニケーションを道具として「使っている」のではなく、コミュニケーションに人間が道具として「使われている」。[…]
イルカと一緒に泳ぐ時に、言語とは違うカタチで人間とイルカはコミュニケーションを交わす。農家が「明日は風が強そうだ」と予想して畑の作物に覆いを被せるのは、人間と植物のコミュニケーションだ。
自分の外側にある異なるものと自分の身体が相互にコミュニケーションした結果、そのフィードバック(作用)として私というものがあらわれる。最初から確固とした「私」がいるわけではなく、誰かとコミュニケーションを交わしてはじめて「私」が見えてくる。
(小倉ヒラク、2017『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎)
直接のきっかけは、修学旅行でオーストラリアに行く時に、パスポートが気になるなら帰化してはどうかと、父親に勧められたからだった。城戸はそれに従ったが、その時に、父が、韓国という国には、お前の「実感」がないから、万が一、旅先で何かあっても、やはり保護してくれるのは日本政府の方だろう、と言ったのが忘れられなかった。韓国政府は、お前という人間がこの世に存在していることを、今現在、まったく捕捉していないから、と。
父は、たった一度しか言わず、城戸も聞き返さなかったが、「実感」ではなく、「実体」と言いたかったのだろうと思っていた。彼は、韓国で生活をしたことがなく、国民としての「実体」が、そこにないことは事実だった。
しかし、それからもう二十年以上経っても、その時の「実感」というふしぎな言葉は、彼の頭に染みついて離れなかった。一種の擬人法で、韓国という国家に、自分の存在の「実感」を持たれていない、という奇妙な想像だったが、彼自身が逆に、韓国という国を「実感」し得たのは、恐らくその時が初めてだった。
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
「そう。そういうのが強調されると、その人の持ってる他の色んな面が無視されちゃうでしょう? 人間は、本来は多面的なのに、在日って出自がスティグマ化されると、もう何でもかんでもそれですよ。悪い意味だけじゃなくて、正直僕は、在日の同胞に、俺たち在日だしなって肩を組まれるのも好きじゃないんです。それは、俺たち石川県人だもんな、でも同じですよ。〝加賀乞食〟なんて、自虐ネタをフラれても、そういうところがある気がしないでもないけど、何かにつけて言われるとね。……弁護士だろう、とか、日本人だろう、とか、何でもそうですよ。アイデンティティを一つの何かに括りつけられて、そこを他人に握り締められるってのは、堪らないですよ。」
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)