2025-04-12
Neobrutalism考:「かわいい」論とハローキティ NN/gにNeobrutalismに関する記事が出ていた。
Neobrutalism: Definition and Best Practices https://www.nngroup.com/articles/neobrutalism/
この記事が扱っているのは、Neobrutalismというデザイントレンドについて、その特徴的な雑さ全開・骨太ゴリ押し系なビジュアルと、UIに求められる明確さ・可読性・操作性といったユーザビリティの要請を、いかに両立させるかという実践的なテーマだ。
FigmaやGumroadといった具体的なプロダクトを例に取りながら、視線誘導、コントラスト比、色数の制御、可読性の担保、ホワイトスペースの設計、インタラクションの明示、単純化とのバランスなど、けっこう実務寄りの具体的設計的な工夫がベストプラクティスとして紹介されている。
デザイナーが混沌をあえて描くとき、ユーザーはそれをどこまで許容できるのか。わかりづらさ、誤認、操作ミスなど、UX上のノイズをどのように制御し、体験として成立させるのか。
感性に寄り添う表現を志向する一方で、ツールとしての機能性も損なってはならない。そのあいだを往復しながら設計することは、多くのUIデザインに通底する普遍的な課題でもある。
そしてこのとき、ベストプラクティスと同じくらい重要なのが、プロダクトにNeobrutalismのようなビジュアルのノリを与えたときに起きる出来事、ユーザーへの作用、デザインの働き……つまり仕掛けに対する意識だ。
もちろんNN/gの記事でも、Neobrutalismというデザインの働きについて「印象に残る」「ブランドの態度を表す」「反ミニマリズム的な潮流」といったような説明はされている。けれど、それらはどちらかといえば現象としての観察にとどまっていて、背景にある構造的な説明にまでは踏み込んでいない。
Neobrutalismが「なんだか惹かれる」と感じられるのはなぜなのか。その感覚が、どんな構造や働きかけによって支えられているのか。今日はそのことについて考えていきたい。
「unfinished」を巡る思索:「かわいい」論とハローキティの造形分析 さて、今回のNN/gの記事には次のようなセンテンスがある。
“Neobrutalism focuses on raw, unrefined elements like bold colors, simple shapes, and intentionally ‘unfinished’ aesthetics.”
訳:UIデザインスタイルとしてのネオブルータリズム(Neobrutalism)は、鮮やかな原色、シンプルな図形、そしてあえて「未完成」に見せるような要素など、粗さや未洗練さを前面に押し出すアプローチです。
注目したいのは 「unfinished」(未完成さ、整っていなさ、粗さ) というキーワードだ。そしてこの言葉を読み解く上で参考になるのが、四方田犬彦の『「かわいい」論』 である。
この本では、「かわいい」という言葉が、未熟さや不完全さを愛でる日本文化のまなざしと深く結びついているとされている。そして、そうした感性の背景にある美意識の構造を手がかりに、「未完成なもの」が持つ表現の可能性に迫っていくのだ。
鍵となるのは、「美しい」「かわいい」「醜い」という三つの感覚の相対的なイメージである。
「かわいい」は一般的には「美しい」の隣人であり、「醜い」とは正反対の言葉であると考えられている。だが具体的に「かわいい」と呼ばれているものを手にとってみると、それが「美しい」とはまったく異なった、むしろ対立する雰囲気を携えていることが、しばしば判明する。またひどく醜く気味が悪いものが、角度を変えて眺めてみると「かわいい」対象として認知されるという例も、枚挙に事欠かない。
[…]
気味が悪い、醜いということと、「かわいい」こととは、けっして対立するイメージではなく、むしろ重なりあい、互いに牽引し依存しあって成立しているものなのである。これは逆にいえば、あるものが「かわいい」と呼ばれるときには、そのどこかにグロテスクが隠し味としてこっそりと用いられていることを意味している。
(四方田犬彦、2011『「かわいい」論』筑摩書房)
四方田は当初、「美しい」と「かわいい」が隣り合う価値観であり、「醜い」はその対極にあると考えていた。しかし調査を進めるうちに、「かわいい」と「醜い」は互いに接近し、むしろ「美しい」こそが単独で対岸にある、という構造が見えてくる。
やがて彼は、「美しい」を「完成された状態」、「かわいい」や「醜い」を「未完成の状態」として整理し、次のようなイメージを作り上げる。数直線の一端を「完成=美」としたとき、その手前から反対端までに広がる広大な「未完成」を表す部分が「かわいい」の領域なのだ、と。
つまり、「かわいい」とは、美という完成形に届かない状態全般に対して、否定せずに価値を見出そうとする姿勢のことなのである。
(この四方田の説は、デザイナーという立場からするとすぐに合点がいく。「美しさ」には、合理的な配置、整ったバランス、均整のとれたプロポーションなど、守るべきルールがいくつか存在しているので、作り方に一定のやり方、つまり公式や定理を使った解法のようなものがある。一方、「かわいい」には無数の回答パターンが存在し、自由なアプローチが感じられる。美しいものを作るときは型に合わせる作業を行うが、かわいいものを目指して作るときには個性を活かす余地がある、というとわかりやすいかもしれない。「かわいさ」には「美しさ」のような共通したルールはないが、総じて「未完成」であるという見方には納得感がある。)
また、未完成なものに対するまなざし、心の働きについてより具体的に示したものとして、松嶋雅人によるハローキティの造形分析がある。
松嶋は、先日東京国立博物館で開催された「ハローキティ展」 の監修を務めた日本絵画史の専門家だ。会期中に配信されたアトロクで、ハローキティの造形的魅力を、日本美術に脈々と続く「未完成のかわいさ」の系譜として語っていた。
ここでは、土偶や埴輪、仏像、面人形など、日本の造形物には、左右非対称、歪み、不揃いといった「整っていない形」が伝統的に用いられており、1974年に生まれたキティちゃんもそうした特徴をしっかり引き継いでいる、と解説されている。
たとえば、頬のふくらみやリボンのかたちはアシンメトリーだし、ヒゲの位置も微妙にズレている。さらに、瞳のない黒目だけの目や、口が描かれていない顔立ちなどもポイントで、視線や感情の表出が制限されているため、見る者の感情が自然と投影される構造になっているのだという。
キティちゃんはどこを見ているかわからない、表情から意思が読み取れないという不完全な造形だからこそ、鑑賞者はそれと対峙したとき、つい読み解こうとして自分の意識を働かせてしまうのだ。未完成さを活かしたデザインには、ユーザーを巻き込み、想像を働かせることで表現に関与させてしまう引力がある。
設計技術としてのNeobrutalism 四方田や松嶋による不完全なものへの考察は、Neobrutalismの理解にも応用できる。
Neobrutalismが打ち出す「unfinished」は、「整っていない」という状態を肯定的に見せる「開かれた状態」の魅力であり、そこに人の感性が触れられる余白がある。デザインが「まだ途中にある」「まだ形になりきっていない」ように見せることで、受け手の想像力や解釈の入り込む余地を生む技術なのだ。
Neobrutalismの本質は、「unfinished」な見た目にあるのではない。それがインターフェース上にもたらす「開かれた領域」にこそ、本質がある。整っていないことによって発生する余白に、ユーザーの感情や解釈が自然と流れ込んでくる。その構造にこそ、Neobrutalismの意義が宿る。
デザインはすべてを語りきらず、見る側に想像や感性を投影する余地を残す。そのとき、そこには「かわいい」という感情の受容の回路が立ち上がる。Neobrutalismには、ハローキティのように、そうした受け手の想像力を引き出す力がある。
Neobrutalismを、単なる視覚的な演出ではなく、「unfinished」を通じて作り手と受け手の関係性をひらき、ユーザーの主体性を引き出す設計の技術として捉え直すこと。 そして、その技術を発展させようとする実践が、Neobrutalismというデザインにトレンド以上の意味を与え、これからのUIデザインに厚みや深みをもたらしていくはずだ。
2025-04-18
Jo Chang「Designing AI for Cultural Diversity」と『鋼の錬金術師』、あるいはデジタルネイチャー 「AIをどうデザインするか?」という問いについて、最近読んだJo Changの 「Designing AI for Cultural Diversity」 という記事が参考になった。このコラムでは、文化によってAIの受け入れ方や期待のされ方が大きく異なるということが、さまざまな事例とともに紹介されている。
Designing AI for Cultural Diversity https://www.uxmatters.com/mt/archives/2025/04/designing-ai-for-cultural-diversity.php
読みながら思い出したのが、『鋼の錬金術師』に登場する錬金術と錬丹術の違い、そして落合陽一が提唱する「デジタルネイチャー」の考え方だ。これらは、AIという存在をどう捉えるか、もっと言えば、「テクノロジーを人間や自然とどう関係づけるか」という問いに対して、いくつかの示唆を与えてくれる。
「制御する技術」としてのAI、あるいは錬金術 Jo Changによれば、西洋文化ではAIを「生産性を上げるツール」として見る傾向が強く、その根底には「人間が自然をコントロールする」という価値観があるという。AIは人間が操るべきものであり、操作性や効率、そして生産性の最大化が重視される。
In Western societies, people view AI as a tool that can boost efficiency and enable them to maintain control. They prefer to manage AI systems directly, reflecting the individualism of Western cultures, in which individuals shape their environments rather than adapt to them. 訳:西洋社会では、AIは効率を高め、物事を自分の手でコントロールするためのツールと捉えられている。人々はAIを自ら管理・操作することを好み、環境に適応するのではなく、自らの手で環境を作り出すという、西洋文化に根付いた個人主義的な価値観がそこに表れている。
これは『鋼の錬金術師』に登場するアメストリスの錬金術とも重なる。地脈から得たエネルギーを利用し、等価交換のルールのもとで物質を自在に変換する技術だ。しかも、国家錬金術師という制度によってそれが軍事利用されている。まさに、テクノロジーを「力」として扱い、「統制可能なもの」として扱う近代的な科学観の表れだ。
「調和する存在」としてのAI、あるいは錬丹術 Jo Changはまた、東アジア圏におけるAIの受け入れ方にも触れており、「協働する存在」や「人間の延長」としてごく自然に受け入れられていることを指摘する。そこには、道具や機械に魂が宿ると考えるようなアニミズム的感覚が影響しているのではないか、という見立てだ。
In contrast, Eastern cultures often embrace AI as a natural extension of human life, emphasizing harmony rather than control. Instead of viewing AI solely as a tool, people in these cultures are more inclined to engage with AI as a collaborator or companion that enhances their experience. This mindset aligns with an interdependent view of the self, in which the individual and the environment are deeply connected. Recent research also suggests that East Asians are more likely to anthropomorphize technology and actually view chatbots as a form of life within the natural world because of the influence of the animistic nature of Eastern religions.
訳:対照的に、東洋の文化では、AIを人間の生活の自然な延長として受け入れる傾向があり、制御よりも調和が重視される。AIを単なる道具としてではなく、体験を豊かにしてくれる協働者や伴侶のような存在として捉える人が多い。このような考え方は、「個人と環境は深く結びついている」という相互依存的な自己観と一致している。最近の研究では、東アジアの人々はテクノロジーを擬人化しやすく、チャットボットのような存在を自然界の中の“生命の一形態”として受け取る傾向があることが示されている。これは、東洋の宗教に見られるアニミズム的な世界観の影響だとされている。
これは、『鋼の錬金術師』に出てくるもう一つの技術体系、シンの錬丹術に通ずるものがある。錬丹術は、アメストリスの錬金術がシンに伝わり、その土地の思想と交わることで独自の発展を遂げたとされている。錬丹術も錬金術と同じ基礎理論で成り立っているため、基本的な特徴は同じだが、錬丹術は体内の「気」や自然の流れと調和しながら働いており、破壊や変換ではなく、治癒や再生といった生命を支える方向にその力を用いる点が特徴的である。
この対比は、西洋医学と東洋医学の違いと重ねても理解できるし、もっと広くいえば、技術と自然の関係性に対する文化的な捉え方の違いとしても読み解ける。どちらが優れているという話ではなく、どちらも人間と世界の関係をどう捉えるかという態度の表れだ。古典的な話だが、それが現代のAI技術の文化的受容の差異として表面化しているという仮説はとても面白いし、説得力があるようにも感じられる。
デジタルネイチャー AIを、制御対象ではなく、関係性の中で「共に働く存在」として捉える錬丹術的な発想は、落合陽一が提唱する「デジタルネイチャー」の思想とも重なってくる。「テクノロジーは自然と対立するものではなく、すでに自然の一部になっている」という考え方だ。
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落合は、スマホやAI、センサーやネットワークといったデジタル技術を「便利な道具」「産業的インフラ」として扱うのではなく、草木や風、天候などと同じように、僕たちが暮らす「環境」の一つとして見直そうとする。ここでは、人間が中心に立つのではなく、人間もまたテクノロジーと共に変化しながら生きる自然存在の一つとして位置づけられる。
この視点をプロダクトデザインの実践に取り入れるとしたら、従来の「人間中心設計(HCD: Human-Centered Design)」的なアプローチには改善を求めなければならない。HCDでは、人間の明確なニーズや目的を起点に設計が行われるが、AIのように環境へと深く浸透し、自律的にふるまう技術の存在を扱うには、その前提そのものを見直す必要がある。
たとえば、明示的なインターフェースを持たないAIとの関係性、あるいは人とAIが共に空間や体験を生成する場面では、「操作性」ではなく「共存性」や「環境への親和性」がより重要になる。こうした状況においては、HCI(Human-Computer Interaction)ではなく、NCI(Nature-Computer Interaction)、すなわち人間も含めた自然環境全体との相互作用を設計の対象とする視点が有効となる。
2020年代に入ってから、ドナルド・ノーマン(HCDの概念を広めた認知心理学者であり 『誰のためのデザイン?』 の著者)が「Human-Centered Design」という言葉の限界を認め、「Humanity-Centered Design」や「Complex Socio-Technical Systems Design」といった表現を使っているように、プロダクトデザインにおいて「人間の利便性」を中心に据えるのではなく、自然環境や非人間的存在、あるいは多様な文化的前提との共存可能性を起点に設計を考える視点は、理論分野では既に主流なものとなりつつある。
Humanity-Centered Design: 個人の欲求だけでなく、社会・地球・未来世代を含む人類全体への影響を考える設計 Complex Socio-Technical Systems Design: テクノロジーだけでなく、制度・文化・法・倫理などと絡み合った社会的構造を設計の対象として扱う そして2025年現在、AI技術のUIやふるまいがWebサービスやスマホアプリなどのプロダクト実装の現場で求められるようになり、こうした視点は実践の側にも徐々に浸透しはじめている。
たとえば、最近注目されているゼロインターフェース/ゼロUIといった概念や、「ユーザー思考」ではなく「データ思考」へと設計の重心を移すといった議論(=ユーザーが何を考えるかよりも、AIがどのようにデータを読み、ふるまうかを重視する設計観)などは、まさにデジタルネイチャー的な、ポスト人間中心主義的な社会観が表れている事例といえるだろう。
社会が変わりはじめるとき、新たな設計の理念や思想が立ち上がる。その萌芽はしばしば観念的で、どこか手触りを欠いたものとして語られる。けれど、それが単なる理想論にとどまらず、現実の中で説得力を帯びはじめるのは、技術がそれをカタチにしてしまうからだ。思想はいつも、想像力だけでは足りない。それが目に見える仕組みやふるまいとなって現れたとき、人はようやくそれに触れ、納得することができる。
プロダクトに文化を織り込む 「Designing AI for Cultural Diversity」 では、異なる文化圏でのAIの扱われ方の違いが目を惹くが、当然のことながら、西洋がどう、東洋がどう、とラベルを貼ることに意味があるわけではない。重要なのは、ローカライズを通じて見えてくる自然観や社会観、人間観の違いに気づけるかどうか。そしてその違いに誠実に向き合っていくことだ。
文化を西洋と東洋の二項対立で整理してしまうことは、やはりとても危うい。思索のきっかけ以上にはしない方がいいと思う。たとえデータや傾向があったとしても、「西洋=制御」「東洋=調和」といった見方そのものが、かつて繰り返されてきたステレオタイプやオリエンタリズムの延長線上にある。僕もまた、そうした枠組みの中に自分を位置づけたくなる(安易なアイデンティティに身を預けたくなる)気持ちに引きずられそうになることがあるが、物事の複雑さや多様性から目を背ければ、見えるはずのものまで見えなくなってしまう。単純な物語に逃げ込まないように心がけたい。
Jo Changが強調していたのは、「文化ごとにAIのUIやふるまいを調整することは、単なるローカライズではなく、関係性の設計である」ということだった。文化が違えば、 価値の測り方も、合理性の基準も、信頼の築き方も変わる。何を伝えるか、ではなく、どう関わろうとするか。自分の作るプロダクトは、テクノロジーと人とのあいだに、どんな関係性を築きたいのか。その答えが、プロダクトの持つ文化になる。
Chooningの例でいえば、音楽分野にストリーミング(サブスク)という技術が主流になっていく中で、人とそれらの技術とこの百年間の(音楽が形を持っていた時代の)文化が「どう一緒にいられるか」を考えることだ。この手の問いの設定と、それに機能実装やインターフェースやデータのやり取りを使ってどう答えていくかということ。そのことが「プロダクトに文化を織り込む」デザインの要諦になるのだと思う。